現在までの道のり【藤本@モザンビーク】

皆さん、こんにちは!モザンビークで日本食レストランを経営している藤本浩平です。更新が遅くなってしまいましたが、モザンビークまでたどり着いた経緯についてご紹介させていただきます。

 

「アフリカで雇用を生み出すことに関わりたい。」

そう思いながら日本の会社で働いてはいたものの、アイデアを考えたり思うだけで、特に何も行動できていないというのが実態でした。アフリカにツテを作ろう、普通ならばそのようなことから始めるかもしれません。

このままでは思いだけで終わってしまう。そう思った私は日本の会社を退職し、南アフリカにある語学学校に身を移します。そこで1か月間英語を学びながら、アフリカでのビジネスについて情報を集めていきました。

その中で、サブサハラで2番目に人口が多い、エチオピア。旅行の時以来何か繋がりを感じていたこともあり、挑戦の舞台にエチオピアを選びます。

早速移り住んでみたものの、初めてのことが多く試行錯誤の日々が続きます。まず、エチオピアに住むために必要なビザを獲得するため、私はアディスアベバ大学アムハラ語学科に籍を置きます。そして出会った友人と田舎町でキャンピングロッジを行う計画を立てますが、その友人がギャンブル好きで怪しく、計画と違うことが次々と起こっていたため、断念。

人に頼るのではなく、自分で切り開いていくしかない。と学びましたが、なかなか物事をうまく前に進めることができない日々が続きました。

アフリカまで来て何をやっているんだろう。SNSで更新される友人たちの近況を見ながら焦る日々。。まだアフリカに挑戦するのは早かったのかもなあ。無謀すぎたのか。上手く物事が進まないときはネガティブになりがちです。

日本に住む友人から「お前は自分で進みたい道を選んで進んで行っているんだからいいじゃないか。Life is good だろ!」と言われた言葉に何度も救われました。そう、目的を見失わず、前に進んでいくのみ

そんな時、偶然にも知り合いから、現地でコーヒーの輸出業を営んでいる会社の社長の紹介を受けたのです。その社長は外国人スタッフを探していたこともあり、ワークパーミット等を手配してもらい彼の会社で働くことになりました。

ところが実際にしたのは日本に営業電話をしてコーヒーを売るということと、新規で取り組んでいた畜産業のプロジェクト立ち上げのお手伝い程度。特に仕事量も多くなく、暇な時間が続いた上に会社の経営も危うくなるという事態に陥りました。

約2年間、エチオピアで様々なことにチャレンジしながら情報収集をしていた私は、同時にエチオピアで事業を行う難しさにも感じていました。1つのビジネスを始めるのに200,000USDの資本金が条件であることも大きな要因の一つでした。

このような状況下、「アフリカで雇用を生み出すこと(詳しくはこちら)」が自分の目標であることをもう一度確認し、環境を変え自分の目標に向かってストレートに動いていこうと再度決意します。その決意と共に、お世話になったコーヒー会社も退職しました。

とはいえ、他の環境に移るハードルが高いことに頭を悩ませていました。植民地になった歴史のないエチオピアの環境が他のアフリカ諸国と比べて少し特殊だったのです(すこしは話せるようになったアムハラ語もエチオピア以外では使えません)。

そんな時、またもや偶然、エチオピアにいた青年海外協力隊の方にモザンビーク、マプトで不動産業をしている方の紹介を受けたのです。

環境を移し、そこで現地の雇用を生み出すという目標に向かってもう一度チャレンジしよう。そう思い、モザンビークに身を移します。

偶然続きのアフリカ生活。次回はモザンビークで何が起きたのか、書いていきます。どうぞお楽しみに!

顧客接点の近いビジネスを通して持続可能な雇用を生み出す [藤本@モザンビーク]

 

皆さん、こんにちは!モザンビークで日本食レストランを経営している藤本浩平です。

今回は前回に続き、私がここ、モザンビークでこれからやっていきたいことについてお話ししようと思います。

資本主義の枠組みに上手くフィットしながら現地の人たちが自力で生きていける仕組みを作ろう。アフリカの人が自ら働いてお金を稼ぎ、そして家族と生活して行ける仕組み。それを作るにはまず雇用を生み出さなくてはならない。ただし、自分無しで回らないような仕組みでは意味がない。旅行を通じて私はそう思うようになりました。

とはいえ、当時私はビジネスに関して何も分からないという状態。

帰国した私は、第一歩目として日本で働くことを決意します。折角日本で生まれ育ったのだから先ずは日本で働きながらビジネスを勉強し、将来アフリカへ戻ってこようと考えたのです。

では、どんな会社で働くか?すんなりと腑に落ちる答えを見つけるまでにはかなりの時間がかかりましたが、「多様な業界業種の会社と付き合うことのでき、且つ忙しそうな会社(私自身が追い込まれないと動かない性格であるため)」という定義で探し、Web会議やWeb上でセミナーを行うシステムの会社へ就職しました。

当時、ソフトウェアの業界はまだ、アメリカで流行したものを日本に持ち込めばビジネスが成り立つ、という時代でした。しかし今はそうではありません。新しいサービスが次々と生まれ、世界規模で拡大し、シェアを獲得していた会社がすぐに落ち込んでしまうということは当たり前になりました。

アフリカで雇用を生み出すには?私は頭の片隅にいつもこの問いを置いて仕事をしていました。入れ替わりの激しいソフトウェア業界は継続的に雇用を生み出すモデルには向いていない。

一方でセブンイレブンのようなビジネスは、技術革新が進んでも「最終的に必ずお客さんと直接接点を持つ」というアナログな部分は切っても切り離せないのではないか?と感じることが多々ありました。

スーパーや飲食店などお客さんとの接点が近いビジネス、(第3次産業)そこで多くのお客さんを獲得することができれば、

その方々へ販売する農作物等も自作し直販することで、安定してビジネスを回すことができるのではないか。思う様になりました。

その結果、以下のようなビジネスプランに至ったのです。

 

① レストランを経営し、顧客のアナログ情報を集める

② 仕入れたものを顧客へそのまま販売し横展開。(スーパーマーケット)

③ 付加価値の付いた養鶏や農作物の生産を行い、スーパー、レストランで販売、利用する。

④ FCなど店舗数の拡大等の横展開

⑤ アナログな顧客の情報が加速度的に集まり、よりニーズに合わせた戦略を立て、実践に移すサイクル

このようにアナログの情報を基にすれば、生産から販売までサイクルを効率よく回すことが可能です。そして何より、スーパーやレストラン、農業などそれぞれが実際生活に根差しているので、個々の場所に現地の雇用を生み出すことができます。

また、モザンビークの通貨、メティカルは通貨の価値が非常に弱く、為替の変動に影響されやすいという問題があります。人々の生活もそれによって大きく左右されているというのは一つの大きな問題です。

この資本主義社会の中で、それぞれの国々は互いに深く繋がり、否が応にも影響を受け合っています。それ故に、モザンビークの人が自力で状況を脱するのが難しい。

しかしこの仕組みであれば、この中で一つの経済がほぼ完結するため、為替の変動による影響が少なくなるでしょう。そして、何より自分が抜けても現地の人たちが独自に経済を回すことができるのではないか。と考えています。

「現地の人が安定して職に就ける。自分がいなくなっても安定して経済を回して生きていけるようになる。」

この目標を、この仕組みを念頭にできることから実現していこう。今はその思いでモザンビークに滞在しています。

読んでくださった方、ありがとうございました!次回もお楽しみに!

アフリカに興味をもったきっかけ [藤本@モザンビーク]

オープン当初

初めまして。モザンビークで日本食レストランを経営している藤本浩平と申します。

初めての投稿になるので、遠いようで意外と近い、アフリカに興味を持つようになったきっかけをお伝えしていこうと思います。

私は広島県尾道市というところで生まれました。そこはよく星の見える場所で、私は小さいころから星を眺めるのが大好きでした。しかしある日を境に、私は星を見るのが怖くなってしまったのです。

「地球から見える星の光は、何万年も前の光なんだよ」

人間の人生なんて、長くても100年程度。その何百倍もの長さを旅してきた光が、今自分の目に届いてるんだ。

幼稚園の頃の私は、そのあまりに大きな神秘を不思議に思い、時間があればずっとそれに思いを馳せていました。しかし、同時に恐怖をも抱くきっかけともなったのです。

100年という、人生。それに対してあまりに大き過ぎる世界。

死ぬのが怖い。自分は死んだ瞬間どうなっちゃうんだろう。何もなくなっちゃうの?いや、いっそのこと歴史に名を刻んで永遠に生きていた証を残しちゃえばいいのかな。

この大きすぎる世界に対してどうしようもなくちっぽけな自分。まだ幼稚園児であった自分は小さいながらに頭をフル回転させ、また小さいからこそ、目の前に突然現れたこの恐怖に対して懸命に抗っていました。

そんな恐怖とひたすら向き合った私は、小学校3年生の時に新しい考えに行き着きます。

「いや、そんなことをずっと考えててもしょうがない。死ぬまでに見たいものを見て、知らないものを知って、幸せに生きていければそれでいいんだ。」

抱いた好奇心に対して、一つずつ答えを出す。長く続いた恐怖の末に辿り着いたこの考えは、今でも自分の軸になっています。このこともあってか、小学校の卒業文集に、「将来は自分の稼いだお金で世界中を旅する」と書き記していました。

とはいっても夢は夢。身近な部分の好奇心に対しては挑戦できるものの、大きな夢に対してしっかりと向き合おうとはしませんでした。

 

そんな中、迎えた大学生活。サッカー、陸上と経験してきた私はトライアスロンに挑むことにしました。1年の頃に見た関東選手権に憧れ、ただひたすら毎日朝6時から練習を積む日々。3年になると実力もついてきて、気づけば地方の大会では優勝、憧れの関東選手権で6位という成績を収めるようになっていました。そしてなんと所属していた大学の団体で全国優勝をも成し遂げてしまったのです。

「あれ?意外と夢って達成できるもんじゃん。」

夢は意外と実現可能。そんな気付きを得た私はすぐに大学を休学します。「世界中を回ろう。」そのまますぐ社会に出て、夢を語って生きるだけの大人になりたくない。そうなる位なら、今すぐ挑戦しよう。そう思ったからです。

 

目指すはアフリカ。5歳、新宿駅で、人生初めてのアフリカの人を見た時に走った衝撃が忘れられなかったからです。視界の斜め後ろ。信じられないくらい背が高く、肌の色が、黒い。

とうとう出発した私は、上海から東南アジア、トルコ、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル、エジプトと旅をし、とうとう念願のアフリカに上陸しました。

旅行時にエチオピア南部にて

初めてのアフリカはエチオピア、ケニア。そこで感じたのは、外国からの支援などをもらって当たり前。そこから自発的な次の展開へ至っていない、継続していない姿でした。

資本主義がベースとなる今、お金稼ぐために誰かが働き、その結果生まれたものをほかの人が働いたお金で買い、そのまた別の人が働いたお金でそれを買う。このサイクルからは逃れられません。寧ろこのサイクルにうまくフィットすることで、生活を豊かにし、幸せに生きていく土台となるのではないでしょうか。

もちろん、そのベースそのものが間違っていると考えている人もいるでしょう。しかし今ある枠組みの中でできることをし、自立して生活を送る人が増えればいい。私はそう思っています。

初めて訪れたアフリカで円を描くような資本主義の流れを、その援助や支援で寧ろストップしているように思えたのです。

「それは、違うんじゃないか。」

なら自分でやろう。このアフリカの地で、生きている人たちが自分自身の人生を送っていけるような仕組みを作ろう

市民が頻繁に暴動を起こす姿、笑顔で自分にお金をせがむ姿を何度も目に焼き付けながら私はこう決心しました。

これがアフリカに拠点を持つことを考え始めたきっかけです。今はモザンビークで日本食レストランを経営するに至っています。

次回は、その仕組みをどのように作っていこうと考えているのか、について書きたいと思います。ここまで長文読んでくださってありがとうございました!