商品リリースに向けて

金融機関を退職して9ヶ月くらいが過ぎて、当初の事業計画から大幅な変更や修正をしながら、でも目指す方向性はブレずにここまできた。

そしてようやく、広くお客さんにリリースする商品を確定した。ぼくたちは、ハンカチーフから良い世界をつくることにする。

創業してからのほとんどの時間を、服づくりに費やしてきた。そして少ない脳みそをフル稼働させて辿り着いた「作務衣」という服を、フランス・パリで発表してきた。そこで気づいたことがあった。服づくりは、かなりの工程を経るぶん、最終価格は予想以上に高くなり、これまで応援してきてくれた人には届かない商品になってしまうのだ。

出口戦略を再考する必要に迫られた。誰に、何を、どのように届けるか。ぼくの挑戦は、クラウドファンディングからスタートした。その最初の挑戦をもう一度、振り返って、どのような人に応援してもらってここまで来れたかということを見つめ直してみた。その人たちに引き続き応援してもらえるモノを、ぼくたちなりに塾考した結果、飲み会に行くぐらいの値段で、いい世界に繋がるプロダクトを届けられないかと思った。

そしてなにより、応援してくれる人たちの身近なものになりたかった。仕事をしているときも、休日も、その人の近くにあって、ぼくたちのプロジェクトを感じてもらえるもの。行き着いた答えは、ハンカチーフだった。

エウェ族の生地に京都の職人技を織り込んだハンカチと、エウェ族による伝統的な染物でつくるポケットチーフ。ポケットチーフは、ビジネスシーンでも用いることができるから、前職でお世話になった人たちにも是非とも使ってもらいたいと思えた。

今年7月にリリースする。あと3ヶ月、必死に準備してベストな形でお届けする。ぼくたちは、ハンカチーフで世界を変えることにした。

学生と、SDGs

今学期、京都精華大学でSDGsをテーマにした講義で複数コマにわたって講師を担当することになった。

同大学のウスビ・サコ学長は、日本で初めてのアフリカ系出身(マリ共和国)の学長である。学術の世界では、アフリカといえば人類学や開発経済学のフィールドになることが多いが、サコ先生は別の視点(たとえば、アートやデザイン、ビジネスなど)から現代アフリカの可能性を探る試みをされている。

また、京都精華大学ではSDGsを中心に据えたカリキュラムの構築にも精力的であり、今回は現代アフリカの可能性について、SDGsを切り口に学生とともに考える機会を頂戴した。

トーゴから帰国して3日後に初回の講義があって、ほとんど寝ずに授業の準備に追われることになったが、希望に溢れる学生をまえにすると疲れが吹っ飛んだ。トーゴ共和国から直輸入したオーガニックのチョコレートとビサップティーを楽しみながら、仕入れたてホヤホヤの情報をお届けした。

講義終了後、学生たちとの対話が2時間くらい続いて、学食でチキン南蛮を食べながら、みんなでいい未来を想像したりした。今後の講義では、どのような角度からトーゴ共和国に光をあてるかということを話し合うことになるが、学生からのアイディアをできるだけ形にしていきたいと思っている。

出張を終えて、春。

およそ1ヶ月にわたる、フランスとトーゴへの出張を終えた。これまでモノづくりをしてきた成果を、モードの最高峰であるパリ市場にぶつけてきた。そして再びアフリカ大陸に入って、トーゴの各地域を巡り、情報収集に奔走した。そんなことをしていたら日本は春になっていた。


 トーゴ出張の終盤戦は、ひたすら辞書を片手に翻訳作業にあたるという、ノリとフィーリングだけで何とかやってきたぼくにとっては、かなり厳しい課題に挑戦していた。ヤッサンが、ぼくの知りたい情報に関する大量の論文やレポート、WEBサイトなどを調達してきてくれて、そこから読み取れることを少しずつベースマップに落とし込んでいたのだ。顔面から汗が噴き出して、辞書やメモの紙がフニャフニャで滲んでしまったり、暑すぎて思考がはたらかず、ドラえもんを描いたりしてしまっているが、日本語話者が初めてリーチするであろう情報だと思うと、ぼくには宝の山に見えた。


 そんな情報を集めていると、トーゴを訪れるのは3回目であったが、初めてトーゴを見るような感覚もあった。これまで見えていなかったか、見ようとしていなかったか、恐らくその両方だと思うが、いかに自分が何も知らなかったかをまたしても痛感することになった。ぼくは今まで、トーゴを含めたアフリカ、もっと言えば、発展途上にある国々のコミュニティに、日本では薄れてしまっている豊かさがあるということを学生時代から発信してきた。でもそれを強調して発信することは、事実であっても真実を曲げることになる。


 調べれば調べるほどに、彼らの生活の厳しさを知った。その日、食べていくだけで精いっぱいだった。だから今日という一日を懸命に楽しく生きようとするし、みんなで体を寄せ合うのではないか。もしぼくが明日、生き延びられるかわからない(あるいは考えられない)として、今日を生きるならば、ぼくは彼らと同じ振る舞いをするだろう。シンプルに、周りの人たちと楽しい時間を過ごしたいと思うだろう。


 彼らの今日を楽しく生きる姿を見て、日本にはない豊かさがあるというのは明らかに説明不足だ。なぜなら、歩いて2時間のところにある学校へ行く多くの子どもたちがいて、100人くらいの生徒がひしめき合う教室で、先生は生徒を覚えきれないから学力のボトムアップを図れないし、医師免許を持たないドクターが公然と病院にいて、首都の病院であっても十分な医療器具が揃わず、少しの病気で命を落とす人がいたり、手足を切断するほかなかったりして、女性は常に虐げられる標的になり、障害者には制度保障もなかったりするのだ。そのような現状を前にして、外国人が彼らの豊かさを語ろうとしていた烏滸がましさを思った。


 そんな初歩的なことでさえも、28歳にもなって今さら知ることになるのである。ぼくはマジで何も知らないのだなあと自分の頭の悪さを恨んだ。だからこそ、知ろうとするエネルギーだけは絶やしてはいけない。過去や現実に盲目的な人間に、未来を語ることはできないと思う。

体調管理は大切。

フランスからトーゴに入り、ぼくなりに体系的な情報を得られるよう奔走してきた。拠点のあるパリメから首都にあるロメを何往復かして、北上したところにあるアタパメという町も何往復かして、動き回ってきた。しかし結論から言えば、ぼくのミスで逃した情報もたくさんあった。

 ここしばらくは、コットンに関する情報を集めていた。ただ、もちろん一筋縄には行かず、いろんなところをたらい回しにされて、なかなか辿り着くことができていなかった。そんな中、マネージャーのリシャの協力もあって、少しずつではあるが前には進んでいて、コットン工場の現場に潜入する一歩手前まできていた。

 しかし最後の最後で、入場を拒否されてしまった。ぼくがもう少し交渉の面でウマくやっていれば、なんとかなったかもしれないのだが、集中の糸が切れてしまった。そこから頓挫したことをリシャに八つ当たりしてしまったりして、自分の未熟さを思い知らされることになった。

 そしてぼくは、とても当たり前のことではあるが、体調管理に注意を払う重要性を再認識した。コンディションが悪いと、いろんな思考がはたらかなくなるし、いつしか遊び心すら忘れてしまって、なにより人生が楽しくなくなる。

 ビジネスマンとして、はやく結果を出さないといけない焦りはあるが、無理をしてはいけない。ぼくたちは人生を生きていて、その人生を構成する時間を、より充実させるためにエネルギーを割かなければならない。今回のトーゴ出張では、ほろ苦い経験もしているが、同時に、なにか大切なことも学んでいるような気がしている。

情報を求めて③

 アタパメ出張で意気消沈してパリメへ戻ってきた。これからどうしようかと悩んでいた矢先、たまたまヘルガーさんというドイツの方と知り合った。彼女は御年75歳、長年にわたり弁護士をされていて環境問題や労働問題を専門に法廷で闘われていた方だ。

 ヘルガーさんは、数十年前に友だち3人と車で旅に出た話をしてくれた。ドイツからフランス、スペインへ行き、アフリカ大陸・モロッコに入ったあとはアルジェリア、マリ、ニジェール、ベナンを周り、最後にトーゴに行き着いて、ビビっとくるものがあったらしい。お子さんが独立し、定年退職したタイミングで再びアフリカ行きを決意。「トーゴに呼ばれている気がする」という理由で、70歳くらいから国際協力の組織を立ち上げたりしているスーパーパワフルクレイジーおばあちゃんである。

 彼女に「行き当たりばったりやからそうなんねん」とか「もっと考えてやらなアカンやろ」とか散々に叱られて、ここは法廷じゃないんで優しくしてくださいとペコペコしながら一緒にビールを飲んでいたら、思いのほか仲良くなってしまった。そしてヘルガーさんの友人で、活動のパートナーでもあるヤッサンという青年を紹介してくれた。


 ヤッサンは首都にあるロメ大学でドイツ語を学んだあと教師になり、ドイツに渡ってヘルガーさん支援のもと国際協力や開発経済などを学んできた人物である。将来は政治家になりたいと照れながら話す彼は、めちゃくちゃいい人で、トーゴの現状を変えようと様々なアクションを起こし、そして幾多の失敗を重ねてもなお、目が輝いているような人だ。そんな彼に悩みを打ち明けると、ヤバいくらい親身になって相談に乗ってくれた。


 するとヤッサンは、いろんな関係筋に電話で確認を取りながら、とあるNGOの代表から、まさにぼくたちが求めていたベースマップを調達してきてくれた。それは今回トーゴを訪問するにあたっての最重要ミッションをクリアした瞬間であった。このベースマップがあれば、これまで蓄積してきた情報と、これから得ていく情報を建設的に組み立てることができる。そしてそれは、弊社を前進させてくれる超重要リソースとなりうるのだ。

情報を求めて②

トーゴの首都・ロメでの調査をとおして、ノチェ・アタパメ・ブリタ・カラ・ダパオンにヒントがあることを突き止めた。トーゴには上記5つの町にコットン工場があるのだ。弊社が扱う商品のコットンが、果たしてどこから来たのか。その実態を把握しようとしている。

現地法人のあるパリメから乗り合いタクシーでアタパメという町へ向かった。運転手に行き先を伝え、コットン工場に直行したが、まさに門前払いをされた。

もちろんこのままで帰るわけにはいかないので食い下がる。外国人が来る場所ではないということを説かれたが、ぼくの粘り勝ちで、「アポイントメントの承諾を持ってくれば通してやる」というところまでこぎつけた。その承諾はどこでどのようにして取得できるのかと問うと、「自分で考えろ」ということだったが、ぼくに考えられる頭があるわけないので、知ってそうな人を探した。何人かの人たちを繋いで、謎の人物に会うことができ、工場訪問の申請書を書いてもらうことに成功した。

それを持って申請をしに行ったが、アポイントメントが確定するのは「1週間後か2週間後か1ヶ月後だ」ということを言われて、ぼくはその場でしばし立ち尽くしてしまった。目の前に工場があるのに入れないもどかしさ。工場で情報を取ろうとしていたが、現場で拾うことにした。ぼくは直接、コットン農家を訪問することにした。バイクの運転手に聞き込みをして、ある農家を訪ねることができた。

またしても怪訝そうな顔をされたが、もうそんなことは慣れてしまって、こちらの気持ちを伝えたうえで協力をお願いすると、快く引き受けてくれた。1時間半にわたって質問に答えていただき、また彼らの農場を見ることもできた。ただ、話をまとめているうちに、もっと大局的な視点で情報を整理する必要があることに気づいた。しかし、もう日が暮れてしまって、ついでに途方にも暮れてしまって、ぼくは不完全燃焼でアタパメを去ることになった。

情報を求めて

フランス・パリでの出張をとおして、お客さんに届けるイメージが具体的になってきた。ただ、もっとその解像度を上げないといけない。ぼくたちが提供する商品は、どのようなもので、誰がどのようなプロセスを経たものなのかを説明したいと思っている。そしてそれが、誰かの悲しみのうえにあるものではないということを証明したいと思っている。

今から6年前のファッション史上最悪とされる事故が起こった。バングラデシュ・ダッカにある商業ビル「ラナ・プラザ」が崩壊し、3,600人以上の死傷者が出た。それは当初、建物の欠陥が要因とされていたが、事を掘り下げてみると、普段ぼくたちが着ている服がそこで作られていたりして、問題を助長していた側面があるということがわかった。

ぼくたちは歴史から学ばなければならない。何も考えずに手を取った商品が、第二のラナプラザを引き起こすことがないように、その出所や根拠をしっかり持っていたいと思った。そんな気持ちからトーゴの首都・ロメで商工会議所や農林水産省、起業家の集まる支援組織などを訪問して情報を集めている。

複数の組織を渡り歩いたが、十分な情報を得ることができなかった。詳細を問うと、「あとはGoogleに聞いて」というような答えも返ってきた。でもぼくは、どうしても諦めきれず、せっかく首都まで来ているからタダで帰るわけにもいかないと思って、そのへんの人たちに聞き込みをするという強硬手段に出た。

4時間ぐらい聞き込みをして、運良く鍵を握る人物から手掛かりとなる情報を得ることができた。その情報のウラを取るには首都ではなく、ノチェ・アタパメ・ブリタ・カラ・ダパオンという5つの町のどこかに行く必要があることを突き止めた。どの町も、まだ行ったことのないところなので少し緊張する。でもやれるところまでやらないと後悔が残る。ぼくは拠点のあるパリメから2時間ほど北上したところにあるアタパメという町へ行くことを決めた。


鼻水が止まらない

フランスからベルギーとガーナを経由してトーゴに入った。寒暖差が激しくて体調は芳しくない。ただでさえ鼻水が出ているのに、トーゴの料理はアタディと呼ばれる唐辛子を多用するので辛さと暑さで滝のように鼻水が出る。

今回の訪問の主たる目的はトーゴの産業構造や人口分布、雇用環境の統計データを把握することと、コットン生産にかかる情報を収集することだが、現地法人のマネジメントも重要な議題だ。

開設してから4ヶ月くらいが経ち、事前マーケティングなどしたうえで営業を開始しているが、思い通りにいくほうがおかしいので、うまくいっていない点を中心にマネージャーのリシャと話し合いを重ねている。

つまるところ、仕事は人の関係性に終始すると思う。従業員やお客さんなどステークホルダーとの関係性をうまく築ければ、だいたいの問題は何とかなる。営業を開始して2ヶ月目に記念すべき初売上が計上され、それから売上は爆発的にあがっている訳ではないが、ボチボチ推移している。リシャはまだまだ十分な売上があがっていないことを問題視していたが、話を聞いていると、問題の所在は近所づきあいにあるように思えた。

リシャは町でも有名な人格者で、彼を慕う人は多い。また、何事も誠実に対応するし、現地法人立ち上げのときに誰よりも汗を流して働いてくれたのは、間違いなくリシャだった。でも、そんな頑張り屋のリシャを毛嫌いする人もいたのだ。頑張っている人やキラキラしている人は、ときに眩しく見えてしまう。換言すれば、人から妬まれたりすることもある。

リシャは多くの人といい関係性を築いてきたものの、近所のある特定の人物とはウマがあっていないことを打ち明けてくれた。その人物は毎日のようにクレームを入れてくるという。その彼の言い分は「頑張っているやつがウザい」らしく、「おまえが頑張ってると、おれが頑張ってないやつに見えてしまう」というものだった。

最初は、あまりに理不尽で聞くにたらないことだと思ったが、よくよく考えてみると、彼の言うことも少し分かるような気もした。頑張らないと生きていけない世の中よりも、頑張らなくてもそこそこ生きていける世の中のほうが、いいと思ったからだ。そう思うと、リシャは頑張りすぎていたのかもしれない。これ以上、頑張ってもらわなくてもいいようにしないといけないと思った。

そしてそのクレームを入れてくる人物を仲間に入れられないだろうかと考えている。おそらく彼は頑張らないスペシャリストで、ほどよいサボり方を知っていると思う。そして頑張らなくても生きていく術を知っていると思う。頑張り屋のリシャと、頑張らない屋のクレーマーがタッグを組んで現地法人をマネジメントできれば、おもしろいことが起こるかもしれない。そんなことを妄想しながら、また鼻水をすすっている。

パリ→パリメ

シャルル・ド・ゴール国際空港から更新している。今からベルギー経由でトーゴ共和国へ向かう。パリでの出張は、目に見えての成果を出せなかったが、そのかわりにゴールのイメージや自分たちのやるべきことの輪郭をはっきりさせることができた。結局、いろんなブティックやブランドとの商談はすべてキャンセルした。ぼくたちはもっと夢を見てもいいと思ったからだ。

それにしてもパリは、とてもサステイナブルな街だった。ファッションの分野においても2024年までに世界一サステイナブルなファッションの都になることを宣言している。そんな全体の潮流もあってか、なかば運命的とも言える店に出会った。それはぼくたちの道しるべになるかもしれない店で、コンセプトから商品ラインナップ、接客、そこに集うお客さん、どこを切り取っても非の打ち所がなかった。「CENTRE COMMERCIAL」という店に、かなりビビっときた。

「CENTRE COMMERCIAL」が扱う「veja」は知る人ぞ知るスニーカーだ。ブラジルのゴム農家と契約し、持続可能な形で生産されている。その商品に込めた思いと、そこに集まる人たち、そしてコンセプトショップとしてのお店。世界一サステイナブルなファッション都市の源流はこのお店から出ているのではないかと思うくらいの名店だった。

その店が取り扱うプロダクトは、しっかりデザインされている。デザインというのは、言わずもがな、計画を意味する言葉であるが、意図をもって計画されているものばかりであった。その洗練されたオーラは、人を惹きつける。そんな光景が広がっていた。

ある種、出口のところでぼくたちが理想とする景色をみることができたのは、とてもよかった。そこのイメージが鮮明であればあるほど、ぼくは走ることができる。トーゴ出張では、商品の仕入れだけでなく、人々の生活や生業の全体像についての情報を仕入れる。ゴールに近づくためには、もっと知らなければならない。そんなことを今回のパリ出張で学んだのだ。フランス・パリから、トーゴ共和国・パリメへ。

一つ一つ、確認。

フランス・パリでの営業を開始してから数日が経った。弊社のデビュー作である西アフリカ・トーゴ共和国から仕入れた布に京都の職人技を織り込んだ作務衣は、パリジャンやパリジェンヌから賞賛の嵐を受けている。

嵐と形容したのは過言ではなくて、道端を歩いているだけで声を掛けられ写真を撮られる。飛び込み訪問したブティックからは取り扱いの了承を4社から受けることができた。さらにはオープンテラスのカフェで休憩していたら、イヴサンローラン のファッションデザイナーから声がかかり、日本の一流アーティストと勘違いされる日々を過ごしている。

これらのことは事業戦略のなかで想定していたことで、ある程度、勝算があってパリ市場に乗り込んでいた。日本では数々の批判を受けてきたから、「ほら見たことか」と思う反面、ほんとうにこれでいいのかと立ち止まっている。

というのも、声を掛けてくださったブランドやブティックが取り扱ってくれるのは、めちゃくちゃ有り難いことなのだが、それがお客さんに届くときの価格は、とてもではないが少なくともぼくのまわりの応援してくれている人たちが買えるような金額ではない。最終の販売価格が100万円ちかくにもなるのだ。

弊社の商品を最終的に誰に届けたいか、ぼくが人生を賭けて魂を込めた商品は誰のためのものなのかということを想像したとき、やはり身の回りの応援してくれている人たちに届けたいとぼくは思う。海外セレブなどの超富裕層の何十着、何百着もあるなかの一つではなくて、ぼくたち世代の何着かあるうちの一つになれるほうが、ぼくは嬉しい。

そんなことを考えるようになって、パリの街並みを歩きながら物思いに耽っている。しかしこれも一つの確認作業なのであって、こうして何か心に引っかかることとか、立ち止まってしまった理由は何なのかということを考える良い機会だと思って楽しんでいる。そもそも、ぼくはトーゴ共和国の友人と交わした約束を果たすために起業した。ハイブランドとコラボして一躍有名になりたいとか、できるだけ売上をあげたいとか、それらはすべて手段の話だ。そんなことよりも「みんなが笑って過ごせる世界をつくりたい」と願う彼が見たかった景色をぼくも一緒に見てみたい。そう志して起業した灯火は、まだぼくの心にある。

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