クラウドファンディング開始!

人生初のクラウドファンディングに挑戦している。

↑アフリカ布に織り込む京都の伝統技術!~元バンカーの挑戦!~(https://camp-fire.jp/projects/view/94504

 

西アフリカ地域に普及しているアフリカ布、パーニュ。そこに住まう人が、それぞれのスタイルで着こなしているが、流通しているパーニュの多くは、オランダや中国で製造されている。せっかくなら、そのパーニュを彼らの企画で、彼らが製造することはできないか。そんなプロジェクトを考えた。ただ、そのパーニュが売れないと仕事にすることができない。そこで、バンカー時代に触れた京都の伝統技術を活かして商品自体のクオリティをあげる構想をしている。

その製造するための拠点をさぐるために、来月トーゴに向かう。トーゴには5つの州があり、それぞれに県がある。さらにそこに住まう民族がちがうから、エリアごとに特性が異なってくる。そのため、誤ったところに拠点を設けてしまうと、それまでそこに根付いてきた文化や伝統が崩れてしまうかもしれない。そこに住まう人たちにとって、できるだけお邪魔ではないところはどこか。その場所を探ってくる。

 

創業期は初めての連続だ。そのなかでも今回のクラウドファンディングは、ほかの「初めて」よりもはるかに緊張と不安が大きい。プロジェクトを公開するまで、かなりの時間をかけて事業計画を練ってきたし、話し合いを重ねてきた。そのほとんどすべてを凝縮したから、ある意味、人前で裸になる感覚がある。

だから批判的な意見もダイレクトに受け止めることになる。そのことの恐怖はあるが、それでも果たさないといけない約束がある。むこうの友人と描いた夢がある。その景色をみるまでは諦められない。

自分で自分を奮い立たせるのはたいへんだ。中島みゆきさんの「ファイト!」を聴いている。

 

未来フェスというイベントに参加してきた

未来フェスというイベントに参加してきた。未来に向けた、さまざまな現場の人たちの声・想い・提案を集めたソーシャル・フェスで、元オリンピック選手や日本ライトフライ級チャンピオンのプロボクサーなど名だたる方々が登壇された。100年以上も前に建てられたという大江能楽堂で開催され、それはそれは厳かな雰囲気でおこなわれた。そんなところで、なぜかぼくも登壇してしまった。

講演
↑なぜかプレゼンテーションしているトシハル

そもそも未来フェスには、お友だちの西岡さんにお誘い頂いて参加した。西岡さんもヤバい人で、長期入院している子どもたちにオンラインで勉強できる環境を提供されている。長期入院している子どもは免疫力が低下している傾向にあるので、勉強したくても先生と接すると感染症のリスクが増大してしまう。オンラインであればそのリスクはないし、しかも親や看護師以外の方と話す機会にもなるのでリフレッシュできる。したがって、オンラインで生を超える授業を提供しているというバリシブな方なのである。(オンライン院内学級CA・YO・U→https://aidnet.jp/cayou/

そんな西岡さんにヒョコヒョコついていったら「勝手にプレゼン」なる企画があって、喋っていいよということになり、靴下を2枚履いて(床に足のアブラがつくとダメ)、たいへん厚かましくもお話させて頂くことになった。貴重な機会であるにも関わらず、稚拙なプレゼンテーションをしてしまって落ち込んでいたら、音楽投稿雑誌『ロッキング・オン』創始者の橘川幸夫さんに有難いコメントを頂いた。

 「聞いた中で、心に残ったのは、京都信金を退職して、学生時代にアフリカの小国を旅して出会った人たちとの約束を実現するために、一人で向かうという青年。人生において、一番大事なことは、自分の夢とか野望ではない。約束を忘れないこと、約束を果たすことだ。

 そこでもうひとつ感動したのが、京都信金が、ベンチャー育成のため、事業を立ち上げるために退職した人が、事業に失敗しても、5年後に復帰できるという制度を作ったということ。自社のことだけではなく社会全体、行員個人のことを考えることの出来る組織は、信頼できる」https://note.mu/metakit/n/nd93324e2540bより抜粋)

もし京都信用金庫に「アントレ・サポート」みたいな人事制度がなかったら、どうだったか。いずれ起業に挑戦しようとは思っていたが、その一歩が遅かっただろうし、こんなにいろんな人と繋がることもなかったかもしれない。退職してからも上司の方々に応援してもらっている。もう退職しているのに、わざわざぼくのために頭を下げて挨拶まわりをしていただく上司までいるような金融機関だから、マジで前代未聞である。

たくさんの方に支えられて何とか食らいついている状況であるが、いつかぼくも、そんな上司と同じことを次世代にできるような器になっていきたいと密かに思っている。そのまえに、自分の思いをしっかり伝えられるようにならないと。

トーゴ共和国大使館との商談

社会人になって初めての東京に行ってきた。主な目的としてはトーゴ共和国大使館での商談だった。アフォニョン・クアク・セダミヌ大使、チョンダ・コッシ・ヘム一等書記官、そして6年前にもお世話になったジュルス・カンコエ・アデュアヨムさんに挨拶をして、ぼくが構想している事業内容をお話してきた。商談にあたっては、津田祐可子秘書に手厚いサポートをいただいた。商談の実現のみならず、事業を進めるうえでキーマンとなるような、たくさんのヤバい人を紹介いただいた。おかげさまで、すごくいい時間を東京では過ごすことができた。

 

京都・大阪でブラッシュアップしてきた事業内容を大使館にぶつけた。「是非ともやってください」とお墨付きをいただけたことは、ほんとうによかったと思っている。まだまだスタートラインにも立っていないが、そもそも見当違いの事業内容だったら話にならなかったので、すこし安心できた。トーゴ共和国において、これまで日本人が会社をつくったことはない。かなりプレッシャーはあるが、いい会社をつくりたい。現地の人にとって迷惑にならないように、そこに脈々と流れている時間を乱すことがないように、慎重に、丁寧にやりたい。

 

フィールドとなる国がニッチな国だけあって、関係する方との繋がりは早い。つい最近まで同国を訪問していた人から、リアルタイムな情報を仕入れることもできた。しかしながら、まだまだ情報は少ない。やはり、現場で生の情報を仕入れる必要がある。来月、じつに6年ぶりにトーゴ共和国を訪問する。そのときにひとつでも多くの判断材料を集めて、活動拠点を探っていきたい。

 

トーゴでの挑戦に先立って、明日からクラウドファンディングのページを公開する。そもそも一人ではできないことに挑戦している。できるだけ多くの方から応援して頂かないと前に進まないプロジェクトだから、どこまでいけるかわからないけれど、いけるところまでいく。

 

金融機関を退職してから、なぜかラッキーなことが続いて、導かれるように前に進んでいる感じがある。ぼくは頭がいいほうではないし、要領もよくない。ただ、アクションを起こして、感性を研ぎ澄まし、根拠はないけど何となく選んだ道が、人生でかけがえのない体験に繋がったりした。これまでアクションを起こして後悔したことはない。動き回っているうちは、なんとかなる。大丈夫。と自分に言い聞かす。

 

事業計画のブラッシュアップ

今は創業期なので、とにかくアクションを起こすことと、目指すべき方向性を固めることを意識している。たくさんのひとにお会いするだけでなく、事業をともに遂行していく相棒と語り合う時間も大切にしている。

 

先日、事業計画をブラッシュアップするための合宿に参加してきた。様々なジャンルの第一線で活躍されている方に「なんで、なんでなんで」とか「ちょっと、ちょっとちょっと」とか言われ続けた。結論からいうと、謎の嗚咽が7回ぐらいでた。合宿からの帰り道、うまく真っ直ぐに歩けなかった。それくらいのダメージを受けながら、相棒は「めっちゃ楽しかったっすね」と戯けたことを言っていた。そんな相棒も居酒屋では見たことないくらいの放心状態に陥っていた。

 

事業計画書で、いちばん大変なのは「ゴールの設定」だと思う。ぼくたちはどう生きるか。どういう景色を見に行きたいのか。なぜそのように生きて、なぜその景色を見たいと思っているのか。それを考えるうえで、ぼくはあまりにも自分のことを知らなさすぎた。相棒のことを知らなさすぎた。人生で震えた瞬間を分かち合えていなかった。

 

これまでぼくたちが考えていたビジネスプランは、ばりショボかった。プランを裏付けるデータを用意していたのだが、それは「頭で理解する」データだった。おそらく、頭で理解しても、人は動かない。人が動くときというのは「心で理解する」ときではないかと思う。心が動かないと人は動かない。人が動かないと、社会は変わらない。だからこそ、これまでの人生で心が動いた瞬間を丁寧に振り返る必要性を感じたのかもしれない。

 

人生を語る。原体験から出てきた魂を商品に込める。そんな商品は、きっと誰かの心を動かすと思う。そんな話を合宿後に海鮮居酒屋で相棒としていたら、お互いに気持ちよくなってしまって、お刺身とかは全て吐いてしまったけれど、見上げた夜空は震えるほど綺麗だった。

 

↑ビールの量に比例して作業量があがる相棒

トーゴ共和国という馴染みのない国について

アフリカにトーゴ共和国という小国がある。在留邦人が数人しか居ないので、あまり馴染みのない国だ。しかし、2011年の東日本大震災時、いち早く日本に駆け付けた大統領はトーゴの大統領である。宮城県仙台市を訪れ、復興支援としてチーク材が贈呈されている。(←記事あり)

 

トーゴ共和国は西アフリカ地域に位置し、ヨーロッパから6時間のフライトで到着する。西にはガーナ共和国、東にはベナン共和国、北にはブルキナファソがある。660kmに広がった通路のような形をしていて、南は50kmに渡って大西洋に面している。面積は54,390㎢で、日本の面積の7分の1程度。熱帯性気候であり、南東に吹くモンスーンと呼ばれる海洋風により雨がもたらされ、またハーマタンという乾燥した風によって夜は寒く日中は暑くなる。全土において平均気温は20度で、わたしが生まれた京都よりも遥かに過ごしやすい感じがある。

↑首都・ロメの夕日

 

公用語はフランス語。国語としては主にエウェ語とカビエ語が話される。人口は730万人程度であるが、西アフリカ海岸唯一の港がトーゴにしかないため、西アフリカ地域の人口3億人5,000万人を超える市場がある。平均年齢は、なんと19歳。日本が45歳くらいなので、若くて勢いのある国だ。それを裏付けるかのように、経済成長率は5%を超える。2008年の南部における大洪水による被害などの影響で経済は低迷してきたが、国際社会からの支援を得つつ、公共投資や民間投資の活性化のための制度改革を実施、近隣諸国の経済成長の恩恵も受けて、安定した成長を続けている。そのこともあって、2012年には国連安保理非常任理事国に選出された。

↑子どもたちが、いっぱい

 

一方で、一人あたりのGNI(国民総所得)は510ドルであり、世界最貧国に挙げられる。リン鉱石・綿・セメント・レンガ・コーヒー・カカオを主要な外貨獲得源としており、輸出国はインド、ブルキナファソ、中国、レバノン。資本財(機械/設備)や石油商品などを中国、ベルギー、オランダ、フランスから輸入している。また国連開発計画(UNDP)によると、何らかの障害をもつ人は約900,000人。10人に1人以上が障害者である。諸説あるが、①栄養を十分に摂取できていないこと、②障害をもつ人同士の子は障害をもって生まれる可能性が高いことの2点が考えられる。今のところ、障害者に対する制度保障はない。運よく施設に入れた者を除けば、路上で物乞いするほかない現状がある。

 

今回、金融機関を退職してトーゴ共和国という国で起業を決めたのは、社会的に弱い立場に身を置かざるを得ない人たちが受ける悲しみに無関心でいられないからだ。現地で障害者差別の現状を目にしたが、調べてみると、そのような環境に身を置く人は想像以上に多かった。そのような現状を打破したいという友人の願いを、ともに叶えたいと思っている。来月下旬、ぼくは6年ぶりにトーゴに向かう。あのときの約束を果たしに行く。

 

金融機関を退職、起業を決意した理由

ぼくが初めてアフリカを訪れたのは今から6年前のことだった。当時は大学生で、知らない世界を見てみたいという知的好奇心から、日本人がほとんど居ない国に行きたいと思っていた。そこで、西アフリカ地域に位置するトーゴ共和国という国を訪問した。まわりの国々は在留邦人が100人から300人ぐらい。一方、トーゴ共和国はわずか2人しか居なかった。(現在の在留邦人は3人。)

↑赤色のところがトーゴ共和国

あまり情報はなかったが、国際的な支援組織をとおして、運よくラジオ局で働くことが決まった。勤務先は首都のロメから乗り合いタクシーで2時間ぐらい北上したところにあるパリメという町だった。そこは日本人どころかアジア人さえも居ないような地域だったから、ぼくが現れるや否や、ものすごい人だかりができた。

彼らは、ぼくがどこの国から来たのかを判断できない様子で、「お前はドイツ人か」とか、「アメリカ人だろ」とかの質問攻めにあった。なかには、興味津々で顔を触ってくる人まで居た。そこで、たまたまタクシーで乗り合わせた方から教えてもらった現地語で自己紹介をすると、歓声があがった。握手したり、ハグしたり、肩を組んで飲みにいこうと誘ってくれたりした。こうしてぼくは、その地域で急速に友だちが増えていった。

↑現地の方は底抜けに明るい

友だちのなかに、ヤオという、酒とタバコと音楽が好きなやつが居た。彼は障害をもっていた。ぼくらの言葉でいうダウン症だ。しかし現地では「悪魔」と呼ばれていて、マルシェ(市場)に行くと集団リンチを受けたし、レストランに入るとオーナーにムチで叩かれて追い出されたりした。

そんなヤオをいつも体を張って守る友だちが居た。彼の名前はマックスといって、ヒゲがモジャモジャのエスカルゴ職人だった。エスカルゴを養殖し、ヨーロッパ諸国に輸出する仕事をしていた。彼とバーへ飲みに行ってはバカ騒ぎするような仲だった。そんな彼が、いつになく真剣な眼差しで言った。

「おれは、ヤオが笑って過ごせるような世界をつくる。」

↑エスカルゴ職人のマックス

トーゴ共和国は世界最貧国のひとつとして挙げられる国だ。もっとお金を稼ぎたいとか、家や車を買いたいとか、経済的なステイタスを求める人は多い。それはここに住まう人だけではない。ぼくも含めて、多くの人が抱く感情だと思う。でも、彼の夢みる世界は違った。

それは頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。同時に、彼がつくりたい世界を、ぼくも一緒に見たいと思った。「今は大学生で出来ることは限られているけれど、今度はビジネスマンとして帰ってくる。今よりもお金を貯めて、人脈をつくって、経験を積んで、いつか必ず帰る。だからその夢、諦めんなよ」と別れのハグをした記憶は、帰国してバンカーとして働いてもなお、色褪せることはなかった。

↑バンカー時代にお世話になったみなさん

かつて友人と交わした約束を果たすために、また友人と共に描いた夢を実現させるために、ぼくは起業を決意した。

1 4 5 6