ガーナでの起業を考え始めたきっかけ 仕事に対する私の考え

みなさん、こんにちは!

ガーナ発kawaiiコスメ作り挑戦中の相川香菜です!

今回はガーナで企業を思い立ったエピソードの3つ目をお話したいと思います!

今回のお話はかなり辛口というか、愚痴ぽい話になってしまうかもしれませんがご了承ください笑。

 

私はガーナでの2年間の活動中、合計4校の小学校を巡回して算数、英語、日本語、図画工作、衛生についての授業などを教師として行っていました。

1学期間まるまる1つの学校にいて、それを4回行うというイメージです。

学校は住んでいる村周辺にあるすべて公立の小学校でした。

 

到着後すぐに授業を行う事になったのは、住んでいるモデュア村にある小学校です。最初は意欲満々であれもしたい、これもしたいと思っていたのですが、すぐに現実に打ちのめされることになります。

 

まず先生が時間通りに学校に来ないのです。

8時から授業が始まると聞いていた私は、7時半頃学校に着きました。

7時45分になりました。誰も来ない。

8時になりました。誰も来ない。

 

一体いつになったら来るのか。

 

では生徒たちはどうかと言うと、来ているのです。

7時半には生徒達は来ていて、ほうきで庭や教室を掃除したり、草むしりをしていました。

でも先生達は誰も来ていませんでした。

 

9時前ごろになりようやく校長先生が来ました。

「8時からって聞いてたからずっと待ってました。何かあったんですか?」

と私は少し怒り気味に聞きました。

 

すると先生はいつも通りといった風に

「新学年が始まったばかりだから生徒たちに庭の草むしりや掃除をするよう言っていたんだ。これが終わったら明日以降授業が始まるよ」

と答えました。

 

それを聞いて私は、教師が来てないのに生徒達だけで掃除を行わせるなんて、日本だとあり得ないよなーと心の中で思いながらも、明日には授業が行えるだろうと思っていました。

後にガーナ人のいう”tomorrow”は文字通りの「明日」ではなく、「明日以降」という広すぎる意味だと理解することになります笑。

 

 

私は校長先生との話し合いの結果、一番英語を理解してくれるであろう小学校6年生の教室のお手伝いをすることになっていました。

 

そう当初の予定では「お手伝い」のはずでした。

でも、実際に学校が始まってみると6年生の担任の先生が来ないのです。

私は再び校長先生に聞きにいきました。

 

「6年生の先生が来ないです。いつになったら来るんですか?」

すると校長先生は

「あぁ、そういえばSaaka(サーカ)先生は国勢調査*の調査員に選ばれていたから1週間ほどは来れないな。その間キミが授業代わりにやっておいて」と言いました。

(*ガーナでは日本のように誰もが文字を読める訳でないので、紙を配って調査するのではなく、文字の読み書きができる調査員が各家庭を廻って聞き取りながら国勢調査を行う)

 

それを聞いた私は、(そんなの前から知ってたでしょー!? ガーナに着いてわずか3ヶ月ばかりで現地語も出来ないし、いきなり1人で教えるとか無理だよ!)と思いました。

でも、出来ないばかり言っていても仕方ないと思い直し、

「急に1人は無理なので、校長先生一緒についてきてください。そして私の話が通じてなかったらサポートしてください」と言うと、先生は

「小学校1、2年生の先生達がまだ来ていなくてそちらの教室に行かないといけないから、少ししたら様子を見に行くからなんとかやっておいて」

と言われ、途方にくれながら仕方なく1人で教室に向かいました。

教室に入ると、40人以上の生徒達が一斉に私を見つめました。

(わー!あの最近やってきた外国人のトゥンテーヤだ!何してくれんだろう!)

という期待感をひしひし感じました。

とりあえず英語で自己紹介をしてみました。みんな、ぽかーんと私の顔を見つめていました。

次に現地語のダバニ語で自己紹介すると、うんうんと分かってくれたようです。

まず何を教えたらいいか分からなかったので、今日は何の授業するの?と聞くと答えらしい答えは返ってきませんでした。

仕方が無いので、英語の教科書を開いてもらい1人の生徒に音読してもらうことにしました。

ほとんどの単語を読む事ができませんでした。また別の生徒に音読をさせてみても結果は同じ。

どうしようもなくなって、私の後に音読をするように身振り手振りで伝え、2ページほどをなんとか読み終えると予想外以上の学力に焦り、私は汗だくになっていました。

その後もとりあえずこの子達の学力を見ようと思い、6年生なので簡単な割り算の問題を黒板に書いてみました。解けませんでした。

2桁同士のかけ算の問題を書いてみました。やはり解けません。

さすがに2桁同士の足し算は出来るだろうと思い黒板に書くと、指を必死におり始めました。

あぁ、本当の本当にこのレベルが出来ないんだ。。

私は、小学校6年生という前提を一切忘れることを心に決めました。

 

その後、2年間ガーナ村落部の小学校の様子を見てきましたが、どこも学力状況は同じようなものでした。

またこの最初の1週間だけ1人で授業をしていたかというと、決してそんな訳ではなく、日本のように時間通りに教室に来て、私を「補佐」してくれる先生はほとんど現れず、結局悪戦苦闘しながら1人で授業を行う事が大半でした。

 

9時、10時頃になってようやくふらっと現れる先生、急に何の連絡もなく無断欠勤する先生、強めの雨が降った時にはひとりも先生達が来ず、生徒達は学校に来ているので学校に私1人の事もありました。

また私が先生達の力を借りて、ゴミを捨てないようにしようという啓発活動の紙芝居を実施しようとしていると、

「では、教室に2人も教師はいらないから私は失礼するね」

とガーナ人教師に帰られたこともありました。

 

日本であれば、短期で外国人教師が授業をしにきて、教室に1人で置き去りにするということなどあり得ないと思います。

ましてやここでは小学生の子ども達は英語もままならず、地元民族が話すダバニ語を話さないと意思の疎通が難しいのです。

私がダバニ語を十分に話せないと分かった上での置き去りでした。

私は呆れを通り越して憤りを覚えました。

 

そんな経験を通して自分が学校にいる事がかえって教師達を怠けさせることにつながっているのではないか、自分はここにいない方がいいのではないか、と何度も思ったこともありました。

 

でも、私には2年間という限られた時間しかなく、いざ学校に行って教師達がいない教室で待ちぼうけている生徒達を見ていると、責任感の強さが勝って結局試行錯誤1人で授業することになるのでした。

 

せっかく高い学歴を持って教師という社会的責任がある職業についている人たちがこんなにやる気が無いのは、いったい何故なんだろう?

当時はこんなに冷静に考えることは出来ませんでしたが、今はただただ疑問に思います。

 

その答えは未だに出ていません。

 

 

なるべく働きたくないから?

なるべく楽してお金を貰いたいから?

頑張ってやっても頑張らなくても違いはないから?

 

2年間いても結局分かりませんでした。

 

でも、ひとつ分かったことがあります。

損得勘定でなく、興味関心だけで動く子ども達の方がずっと変化のスピードは早く、大人達は自分のメリットになると判断するまでは絶対動かない

ということです。

 

だったら、それでいいやと今は思っています。

 

メリットを見せないと動かないのであれば、私はガーナで調達できる原材料を使って、kawaiiコスメを企画販売し、日本のお客様にわくわくする商品を届け、その売り上げを従業員たち、地元地域、株主さんなどすべてのステークホルダーたちに還元する。

 

ガーナだから、途上国だからって中途半端なダサいものは絶対に作らない。

国際協力でアピールする商品じゃなくて、他の普通に可愛い商品と並べて選んでもらえるものを作りたい。

本気の仕事で、人の心を動かす。

そんな真摯に仕事に取り組む姿勢を見せ、変化を見せる事でしか、大人達の心を動かす事は出来ないのではないかと思っています。

 

 

私は仕事をすることはお金の為だけでは無いと思うし、かといって労働の対価が不当に扱われていいものでもないとも思います。1人1人の労働が正当に評価され、それぞれが自分らくし働ける場所を作ること、その結果仕事を通して自尊心や自信をつけて貰えたらそれに勝る喜びはありません。

 

3回にわたって起業の動機について書いてきましたが、思い返してみると私はガーナで怒ってばかりだったなと思います笑。

こんなのあり得ない?!なんで?と思ってばかりの毎日でした。

でも今思うと起業したいという自分を突き動かしているのは何よりも『怒り』ではないかと思います。もしかすると、そのエネルギーの強さは、喜びよりもどんな感情よりも強いかもしれません。

なんでこんな現実があるのだ。ムカつく。あり得ない。

そんなことを感じてばかりの毎日でした。

 

けれど、そんな現実を1ミリでもいいから良い方向に変えたくて、その変化を自分の目で実際に見続けていたいから、私は突き進んでいきたいのだと思います。

(写真は、テストの成績上位者に手作りのメダルを渡した時のものと、私が作成した教材を頑張って解いてくれる生徒の様子です)

 

Kana Aikawa

ガーナでの起業を考え始めたきっかけ 教育の視点から

みなさん、こんにちは!

ガーナ発kawaiiコスメ作りを目指す相川香菜です!

今回はガーナにて起業を考え始めたきっかけの2つ目のエピソードをお話ししたいと思います。

 

私は2年間の活動中、合計4校の小学校を巡回して教師として授業を行うという活動と、シアバター生産(後述予定)についての活動を行っていました。

小学校での授業を終えてバイクで帰宅していたある日、近くの村の高校生に

「Madam Tunteeya(マダム・トゥンテーヤ=私の現地でのダバニ語の名前)、ちょっと相談があります!」

と呼び止められました。

 

なんだ、なんだと思ってバイクを止めると彼は深刻そうな顔つきで

 

「僕、高校を辞めようと思います。」

と言いました。

 

私はかなりびっくりしてしまいました。なぜならこのガーナ北部州の村から高校に進学している事は、日本で高校に進学していることとは訳が違うからです。

私はとっさに(もったいない!辞めないように説得しなくては!)と思い、彼にそのまま伝えました。

すると生徒は、

「学校の授業についていけないし、家に帰って農業を手伝おうと思います」

と言いました。

授業についていけないという言葉を聞き、私は(あぁそうだろうな)と納得すると同時にとても悲しい気持ちになりました。

私が教えていたのは小学生達だけですが、文字を書く事すらかなり遅くその上スペルミスだらけだったり、小学校6年になってもかけ算を言えない子、簡単な四則計算ですら間違う子どもたちをたくさん見てきたので、高校生の彼が授業についていけないというのは、全く疑問を感じないことでした。高校生になっても多分基礎的な計算、読み書き力もそれほど身に付いていないのだと思います。

しかしそうだとしても、ガーナで高校を卒業したという資格は貴重なものだし、教育は続けていって欲しかったので、

「もったいないよ!せっかく高校まで進学できているんだから頑張りなよ!」

と必死に言いました。

 

しかし、その時私は自分の言葉にはっとしました。

 

私は自分の価値観で教育を勧めているけれど、彼の家で農作業の担い手が必要なのは本当の事だろうし、これだけ教育の大切さを説いているけれど、果たして私は、彼の卒業後の進路に責任を持てるのか?と。

 

日本であれば、学校を出れば受け皿になる民間企業がたくさんあります。

私は残念ながら就活失敗組(笑)だけれど、大学の友人達は大手企業に就職を華々しく決めて働いていました。

けれど、ガーナでいい学校を出て、みんなどこに就職していくんだろう。

今この子に高校に居続けることを勧めても、企業のひとつでも紹介出来る訳でないのに。だとしたら、このまま家の農業を手伝う方が、労働力が増えてマシな選択だと考えるのはもっともだよな、と思いました。

 

それでも、やはり諦めきれず、

「辞めないで。きっといつか高校を出ていて良かったと思う日がくるから」

とそれだけ伝え、私は村に戻りました。

 

 

 

 

その後、人づてに彼が高校を退学したことを知りました。

 

 

ボランティアでガーナに来ていて自分の無力さを痛感した瞬間でした。

自分が特別すごいとか、何か大きなことをしてやろうと思っていた訳ではありません。ただ、ガーナ人でなくわざわざ外国人である私に相談したのは、最後の最後のSOSのサインだったんだろうなと思うと、やはり言いようのない無力感に恐れました。

 

しかし、今でも私は教育の力を強く信じています。

 

祖父母や母親が教師をしていたからかもしれません。

でも、多分それだけでなく、教育が人生の可能性を開く唯一の平等なチャンスだと信じているからです。

 

自分の事業で変化をもたらせる相手は誰が一番嬉しいか?

 

この質問に私は即答できます。

 

「私が住んでいた村の子どもたち」

 

これからガーナも選択の余地無くさらなる世界の急激な変化の波に飲み込まれていくでしょう。

でも、たとえ世界がどんな風になったとしても、自分の力で自分の人生を切り開いて行く力を身につけて欲しい。

 

だからこそ、ガーナに産業を作りたい、高い教育を受けた人が、卒業後の目標となるような企業をひとつでもいいから生み出したい。

 

それが私が事業をする意義であり、存在理由です。

(写真は隣村のKpillo/Napagyili(ピロ・ナパイレ)小学校の1つの教室の様子。生徒数が多くなりすぎたので仮設の教室です。)

Kana Aikawa

ガーナでの起業を考え始めたきっかけ

みなさん、こんにちは!ガーナ発kawaiiコスメ作りに挑戦中の相川香菜です!

今回からは数回にわたって事業を始めようと思い始めたエピソードについてお話したいと思います!

前回お話したように、牧歌的なガーナ北部の村に村の人たちと同じような生活をしながら活動する事になった私ですが、村に到着後一番始めに言われたことがありました。

(写真は私のホームステイ中の部屋)

それは

「日本政府のお金を使って村の未完成の職業訓練校の寮を完成させて欲しい」

と言う事でした。

 

到着間もない私には、よく意味が分からず言われるがままにホームステイしていた家の兄弟たちの後について寮を見に行きました。見に行くと言っても、着いてみると自分の家の目の前にある寮でした笑。

 

現場を見てみると確かに、建物の枠組みは出来ているけれど、窓はないし、ドアもないし、天井が無いところもあるしという状態で、生徒達がとても住める状態にはなっていませんでした。

(ちょっと分かりにくいですが、写真左手の奥の建物が寮です)

どうしてこんな事になったの?

と尋ねると、英語の良くできる次男のAndrewsが経緯を話してくれました。

 

この学校の名前はKofi Annan Vocational School (コフィ・アナン職業訓練校)というのですが、なぜ国連事務総長を1997年から2006年まで勤めたガーナ出身のコフィ・アナン氏の名前がついているかと言うと、このガーナ北部の村にコフィ・アナン氏が実際に訪問されたからです!その話を聞いた私は、まるでトップアイドルがその場所を訪れたように興奮しました!笑 国際関係学を勉強していた者にとっては、国連で働くことは一種憧れのようなもので、そのトップであったコフィ・アナンさんはやはりすごい雲の上の存在でした。

そんな人がここを訪れたなんて!

(写真はKofi Annan Vocational School (コフィ・アナン職業訓練校))

正直、あんまりよく分かっていなかった話に一気に興味を持った私は、

なんでコフィ・アナンさんが来たの?なんで?なんで?

と興奮気味に聞きました。

すると、アンドリューは、

私の配属先でもある地元NGOが活発に活動を行っていたため注目を集め、ガーナの中でも特に貧困度が高いと言われている北部州の村の1つを訪れることになり、その内の1つがNwodua村であったことを教えてくれました。

それを聞いた私は、(あー!そんなすごい瞬間にここにいたかったなー!)と強烈に思いました。

そして、モヂュア村を訪れたコフィ・アナン氏は、都市から交通の便のよくないこの村に生徒達が安心して住める寮が必要だという話に共感し、寮建設のための資金をUNICEFから出資することを約束し、資金が援助されたのでした。

 

ではなぜ、潤沢な資金が与えられたのに寮が完成しなかったのか尋ねると、

建設中にお金が底をついてしまった

と切なそうに教えてくれました。

 

だから、完成させる為に私の力で日本政府のお金をもらってきて完成させて欲しいということのが話の顛末でした。

 

これを聞いた私は、(私の来た目的を勘違いされているなぁ。。私はだたのボランティアで偉くもなんともないし、そんな力ないよ。)ととまどいました。

 

それと同時に、母親がずっと続けていたUNICEF等への援助が、最終的にこんな結果になっていることもあるのかと知りショックでした。

もちろん、2年間の活動で学校現場で実際に活かされている教材などもたくさん見てきました。ただ、私が見た未完成の寮も事実は事実です。

 

当時村にいた訳でもないし、なぜお金が底をついてしまったのか詳しく聞いてもそれほど理解できる答えは得られませんでした。

 

なので、ここから先は私の完全なる推測になるのですが、村人達が悪意を持ってお金を私用に使ってなくなったのではなく、そもそも大きな建設物を建てるということは、かなりの計画性を必要とする作業だからではないかと後になって思うようになりました。

帰国してから、大手建設会社で働いている人に話を聞く機会があったのですが、日本の会社にはまず予算を立てる部署があり、建物を建てる前にそこでまず予算を立てるそうです。そしてその部署はひたすら予算を立て続けるとのこと。それも1級、2級建築士の資格を持った方々が行うのです。

 

ガーナの村人達にはおそらくこのような緻密な予算計画はなかったはずです。

そして村人達が大工さんなどを呼んできて工事が始まったのだろうと思います。雨が降ったり、職人さんが農作業に行ってたまに来てくれなかったり、途中までの完成を祝って皆でジョロフライス(ガーナのトマト味の炊き込みご飯。美味です)を食べて労働をいたわり合ったり、途中までの完成を喜んで大工さん達にジュースを振る舞ったり、そんな日が何十、何百日と続き、気づいたらいつの間にか予算がなくなっていた笑

というようなことではないかと思います。

 

(えぇ?ちょっと!?まだ完成していなのに、お金ないよ?!どうするんだよ?!)

となって初めて予算では間に合わなかったことに気づいたのではないかと思います。

 

ちなみにガーナ国内をバスなどで移動していると、未完成の建物をしばしば目にします。数えた事はないですが、大平原にぽつんといきなり大型の未完の建物が現れるので、結構目立ちます。

 

またガーナで友人達と話していると、建物の建て方に対して、そもそも最初から全て完成させるという感覚は持っていないようだとも感じました。

 

例えば、最終的に6部屋分建てたい家があったとしたら、3分の1の2部屋が完成した時点でなんと住み始めてしまうのです。そして、お金が入ったら、残りの工事を進めていくと言う感じです。

 

寮の場合、個人の家と違ったのは、規模の大きさと建築資金が一気に与えられてしまったということです。それが結果的に未完成の寮を生む結果になってしまったのだと思います。

 

では、職業訓練学校に通う生徒たちはどこに住んでいるかというと、昔ながらの下記のような家です笑。(家庭訪問の時に小学校の生徒の家を撮影)

結局はそこに落ち着くのなら、きのこ(見かけがキノコのようで可愛らしいから勝手に命名)を20棟くらい建てればよかったんじゃないかなーと心の中で思いました。

 

この出来事を通して私が感じた事は、資金を上手く活かすには、マネジメント能力も必ず必要とされるということ。

また人から棚ぼた的にもらったお金ではどうしても責任の所在があやふやになってしまうこと。

逆に自分で稼いだお金には絶対的に責任感が生まれる。

という事でした。

 

私の目指す事業では、資金を援助するのではなく、ガーナ発のkawaiiコスメを企画、生産販売し、その利益をまずは従業員、そしてゆくゆくは村の全体の生活の質向上に還元できるような循環を生み出していきたいと思っています。

援助金と異なる点は、それは「自分たちの手で稼いだお金」だと言う事です。

自分の手で稼いだお金をどのように使っていくか、その変化も見届けたいというのも私がビジネスという手法を選んだ理由の1つでもあります。

 

※今回書いた内容は私が体験した経験の1つにすぎず、全ての援助金がこのような使われ方をされている訳ではないことをどうぞご承知おきください。

 

Kana Aikawa

ガーナ到着直後のカルチャーショック体験

みなさん、こんにちは!

ガーナ発kawaiiコスメ作りを目指す相川香菜です!今回は起業をしようと思うに至ったガーナでの出来事を話そうと思っていました。しかしながら、その前に私が現地でどのような生活を送っていたのかお話しないと、起業のきっかけをお話するのも難しいと気づいたので、今回は当時を振り返りながら現地での生活の様子をレポートしたいと思います!

 

2010年6月JICA青年海外協力隊の村落開発普及員としての派遣が決まりガーナに赴きました。

ガーナでの私の要請内容(合格通知に書かれていた仕事内容)は現地NGOに配属され、地域の住民の生活の質の向上、女性達の収入向上、啓発活動などを行う、というものでした。

これだけの情報で正直何をしたらいいんだろう?と当時の私は思っていました。

2年間という人生の中の決して短くはない期間を費やすには、要請内容のたった1枚の紙に書かれた情報量ではあまりに少なすぎて不安で、派遣までの期間、ネットや本などで自分なりに色々調べてみましたが、得られる情報はとても限られていました。

また『収入向上』というキーワードがあったため、ガーナ協力隊OB・OGとして事業をされている方に話を聞いたりもしました。

色々な情報を調べていると、ある日ネットサーフィン中誰かのブログに、写真付きでガーナの土壁ハウス!トイレも外!すごい!みたいな内容の記事があり、(まさか、こんなとこには住まないよなー、こんな所に行く人はすごいなー。ウルルン滞在記みたい!)と無邪気に思っていました。

 

現地に行ってみると、トップの写真を見て頂いたら想像がつくかもしれませんが、私の家こそがまさにそのような家でした。笑

 

ガーナ到着後、最初に行われるのがホームステイプログラムです。

いきなり1人で現地の家に住むのではなく、家庭生活を通して活動を行っていく地域に馴染み人間関係を築いていくというのが目的です。

その際にJICA事務所で各自のホームステイ先に関する情報が配られるのですが、それが下記の写真のようなものでした。

あまりに自然素材あふれる家に、その時の私は絶句し30秒ほど固まっていました。そして、まず(トイレが穴やわ)と思いました。それから次に(トイレとお風呂の差って何?穴か壁の違い?シャワーってどこにあるの?)と真剣に考え始めました笑。

そんな絶句している私を見て、同期の隊員たちが私の紙を覗き込んできました。

そしてそれを見た同期の隊員も絶句、その絶句している同期を見て、他の隊員も紙を覗き込むという感じで、みんな自分のホームステイ先のことはそっちのけで私のホームステイ先を見ていました。そして、みんなに言われた一言が

「かなちゃんのステイ先を見てたら自分は大丈夫だと思えてきた」というものでした。。

 

こんな言葉をかけられつつ、2週間いよいよ活動先であるガーナ北部州のタマレ、そしてそこから車で30分ほど行ったところにあるNwodua(モヂュア)村に向かいました。

 

着いた当日はもう夜になっており、出されたご飯を家の外で食べ、与えられた部屋をよく見ることもなく、くたくたになって眠りました。

 

翌日目をさますと、いつも見ていたフラットなはずの天井が「わら」になっており、顔の上に寝ている間に落ちてきた「わら」がついていました。

 

その瞬間に自分がガーナにいること、自然素材あふれる家に住んでいることを思い出し、夢でない現実にため息が出そうになったことを覚えています。

 

しかしながらそれからの2週間は、ホームステイ先の家族は優しく接してくれるし、近くの村や街にいる先輩隊員達と交流する機会もあり、充実した毎日を送って楽しく過ごしていました。

 

2週間のプログラムを終え、首都のアクラに一度帰る際、経由地であるガーナ第2の都市であるクマシで夜に突然発熱しました。

体がだるく熱もあり、蚊に刺されることで感染し、処置が遅ければ命の危険もあるマラリアも疑いました。結局、クマシで落ち合った同期のさきちゃんに解熱剤をもらい、それでなんとか熱を下げ、アクラまでの約5時間ほどのがたがた道のばかりのバスの残りの旅を乗り越えて帰ってきました。解熱剤で熱は下がったのでマラリアではなかったようです。今にして思うと、2週間なんとか張りつめていた緊張の糸が一気に解けたゆえの発熱だったのだと思います。

 

アクラでの数日間の滞在を終え、その後いよいよ活動先に戻り、本格的な活動に入っていくことになります。

 

帰国後自分の一番辛かった最初の体験談として、村に初めに滞在した時の話をします。

するとそんな所に住んでいて辛くなかったのか、帰ろうと思わなかったのかと聞かれることもありました。辛くなかったのかと聞かれれば、辛くないわけないやん!と答えています。笑

 

小中高まで大阪市で生まれ育ち、大学を京都とワシントンD.C.で過ごした生粋都会っ子の私が、ガーナの中でも貧困度が高いと言われている北部の村落部で現地の人とほとんど同じような生活をすることになったのです。

カルチャーショックどころの騒ぎではありませんでした。

 

おなかを壊しているのに夜中にトイレに行けなくて(トイレが外にあって暗くて怖くて行けないから)1人で泣きながら、限界が来てトイレに駆け込んだ事もあります。洗ったジーンズが夜に干しても乾いてしまうようなガーナの一番暑い時期に、電気が1週間完全に止まって、暑さで夜中に起きてしまい、冷たい水が飲みたくて飲みたくて、電源が切れている冷蔵庫(冷蔵庫を持てるだけ私は富裕層である証)に顔を突っ込んで、ようやく電気がないことに気づいた悲しい夜もあります。

 

でも、私は2年間一度も帰国しようと考えたことはありませんでした。

それどころか、2年間一度もガーナ国外に出た事もありませんでした。

当時の私は、ガーナで体験できるもの全てをこの2年間で吸収しきってやろうと心に決めていたからです。

「もう一度ガーナで同じ体験をしたいか?」と自分に問うたことがあります。

 

答えは即座にノーでした笑。

 

でも、私の人生の中からガーナでのこの2年間の体験は絶対に消さないで欲しいし、人生の中での学びの多くはガーナにあったと言っても過言ではありません。

これから先、辛い事も失敗する事も人生においてたくさんあると思います。

けれど私はこの2年間の体験があったから、絶対に立ちあがり続けると決めています。それと同時に、あれ以上の生活環境で辛い思いをすることはこの先まずないだろうと思ってもいます。笑

私がガーナで学んだことの中で大切な学びの1つは、人生において必要なのは転ばない賢さでも、先見性でもなく、転んでも立ち上がり続ける力なのだということです。

そして、何度どんなに転んでも立ち上がり続けることさえ出来れば、いつか想いは現実のものになっていくと強く信じています。

 

 

写真はNwodua村です!絵本みたいで可愛いでしょ?

Kana Aikawa

 

ガーナとの出会いのきっかけ

みなさん、こんにちは!

ガーナ発kawaiiコスメ作りを目指す相川香菜です!

 

今日は、私がガーナに行く事になったきっかけについてようやくお話したいと思います!

みなさん、ガーナと言えば何を思い浮かべますか?

 

やはりチョコレート

 

ですかね?

 

私も2010年6月にガーナに行くまで、ガーナについて知っている情報はそれにちょっと毛が生えた程度でした。

 

ガーナとはちなみに西アフリカのこの辺にある国になります。

日本から出発すると、成田空港→オランダのスキポール空港(約12時間のフライト、ここで一泊)→ガーナのコトカ国際空港(約7時間のフライト) という約2日間にわたる長い長い旅路です。

 

そんな日本から遠く離れたアフリカの国になぜ行こうと思ったのか?

 

国際関係学部を出て、海外に興味を持っていた相川さんだからきっとガーナの人々を助けたいという崇高な目標があって現地に行かれたんでしょう、と期待された皆さんごめんなさい。笑

 

実際のところは、誰かの役に立ちたいとか、貧しい人たちを助けたいとか素晴らしい目標があったからじゃなくて、自分の為だったと言わざるをえません。

 

もっと言うと、たくさんの選択肢があった中からガーナ行きを心強く決めたのではなく、当時の私にはそれ以外の選択肢はないも同然でした。

私は、ガーナに言った理由を人に聞かれた時にいつもこんな風に言っています

「私はガーナに逃げた」と。

(なんとも大掛かりなグローバルな逃げだけど笑。)

 

2007年9月アメリカから帰国。大学3年生後期から復学し、日本での単位を取るため授業に出席すると同時に、就職活動を始めました。

世界の色々な所に行ってまだ見えていない問題を自分の言葉で伝えたいと思っていた私は、マスコミを志望し、大手新聞社から地方紙まで色々なところを受験しました。

 

しかしながら結果は惨敗でした。

 

その上、周りの友人達はどんどん大手企業に就職先を見つけていき、とても幸せそうに見えました。

 

ほんとに自分は不器用でだめだな。

なんでみんなは当たり前のように就職できていくのに、自分は出来ないんだろう。

 

周りがどこどこに就職が決まったと話すのが日常になっていく中、第一志望とは関係のない会社でも一社でも内定が欲しくて、ただただ手当たり次第応募し、受けまくっていました。

しかしながらどこからも内定をもらえない。そして何故だめなのか理由は一切教えてもらえない。

精神的に追い込まれてきた私は、ある日大学のキャリアセンターで号泣しました。「アメリカの大学でだって必死で勉強して、人よりたくさんの単位も取っている。でもどうしても駄目なんです。もう無理です。頑張れません。」とカウンターで泣きながら喚いていました。担当の方は、すでに成人している大学生が泣く姿に驚愕し、たじろいていました。今思うと、担当の方には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。ごめんなさい。笑

 

結局卒業しなければならない頃になってもどこにも就職先が見つかっておらず、大学4年生で単位を残し、就職浪人の為にもう1年大学にいる事に決めました。

 

そうして再度チャレンジした就活リベンジ2年目。

筆記試験対策も、小論文も勉強した、新聞研究もいっぱいした。

今年こそは難関だろうがなんだろうが受かってやると意気込んでいたのも束の間。気づけば昨年と同じような道をたどっている自分がいて絶望しました。

そんな中、もう空欄を埋める為の志望動機書も書きたくない、筆記試験もしたくない。何か全然違うことをしたいと思いました。その時に思い出したのが、1学年上の友人が参加していたJICAの青年海外協力隊派遣制度のことでした。2009年4月頃、来年以降に派遣される春募集がかかっていました。

私は、資料を取り寄せ募集要項に目を通して、自分が出来そうな仕事内容を必死で探しました。けれど、大学生の何のスキルもない自分には出来そうもないことばかりで、無理矢理こじつけの理由をつけて、大学で学んだ国際協力論の言葉をなんとか並べて書類を送りました。

すると翌月東京での面接のお知らせが来ました。しかも交通費も出していただけるとのこと。就活と同じスーツで面接に行くと、就活と同じような複数人の面接官を相手にした答えづらい質問が続き、しどろもどろになりながらなんとか面接を終えました。

8月頃、相変わらずどこからも内定がもらえていなかった私のもとに、青年海外協力隊員としての合格通知が来ました。

「え?受かってる?」私は2年以上ぶりに見た「合格」の文字が素直にとても嬉しく、最初国名すら見ていませんでした。

冷静になって書類をもう1度見ると「派遣国:ガーナ共和国」と書いてあります。あれ?私第3希望国までのどこにもガーナって書いてないけどな?

 

でもガーナで合格ってことはガーナなんだよな、うん。とその時なぜか素直にすぐに受け入れた私。笑 そしてガーナと聞いて真っ先に思い出したのが、大学時代の友人がAmerican Universityと提携しているガーナ大学に半年間留学しとても楽しかったと語っていた事。その友人はまじめな留学生友達の中でもひときわ真面目で、週末夜の食事会に誘っても勉強するからとほとんど断っていたような子でした。その子がガーナから戻って来た日、迎え入れようと思ってアパートのドアを開けると、なんと赤のドレッドヘアになっている彼女がいたのです!

(え!?誰?)私は衝撃を受けました。あの真面目な子をここまで陽気に変えるガーナって一体? そしてそこまで彼女が楽しいと言う国ならきっと何かあるんだろう。

 

それと同時に、かなちゃん大学卒業後は何をするの?と聞かれた時に初めて答えることができる進路が出来たのです。

 

「私はガーナに行くよ。」

 

卒業後の進路が初めて決まったとても嬉しい瞬間でした。

 

次回はガーナでなぜ起業しようと思うようになったか?をお話したいと思います!

写真はアメリカの大学の時のものです!

 

Kana Aikawa

海外での経験を通して私が得てきたもの

みなさん、こんにちは!

ガーナ発kawaiiコスメ作りに挑戦中の相川香菜です!

今日は、ガーナに行くお話の前に、そもそも私がどのようにして海外に興味を持ち始め、海外の人々と仕事をしたいと思うようになったかをお話ししたいと思います!

 

なぜ私は海外に心惹かれるのか?

 

うーん、なぜなんでしょうか笑。

 

自分で出したお題ながらなかなかの難題です笑。

 

好きなものって、なぜだか分からないけれど好きっていうことの方が多くて論理的に理由を説明するのは難しいですよね?

 

だけれども、なんとかこうにか頑張って説明すると、海外での体験は常に私をワクワクさせてくれ、多くのことを学ばせてくれるから。そしてとても大変な経験の後に得られる何物にも代え難いすばらしい経験を決して忘れることが出来ないからだと思います。

 

私の両親は、私が幼い頃に離婚しているので、父のことはよく分かりませんが、母は学習塾の教師をずっとしており、特に海外に行く機会がある仕事をしている訳ではありません。祖父母も小学校の教師をしており、海外とは特に縁がある訳ではありませんでした。

しかしながら、家ではよく世界遺産特集のテレビ番組が流れていたり、『世界ふしぎ発見』は毎週欠かさず見ていました。また母は昔からUNICEFと国境なき医師団には寄付を続けており毎月送られてくるレポートなどを見て、ふーん、世界にはこういう人たちもいるんだな、なんだか大変そうだなと子どもながらに関心は持っていたのだと思います。

 

中学に入ると、仲良くなった友達が洋楽好きで勧められるがままに、Backstreet boysやSpice Girlsなどを聞いていました。そして日本語の曲ではなく英語の曲を聞いている自分はすごくかっこいい中学生だと思っていました笑。聞いているうちになんて歌っているのか知りたいと思うようになっていき、その頃から英語のリズム感に心惹かれ、洋楽を聞いたり、NHKラジオを聞いて1人で勉強するようになっていきました。

 

そんな中学2年生の夏休み、家族旅行でシンガポールに行く機会がありました。

パックツアーだったので、英語でコミュニケーションを取らなければならない機会はまったくなかったのですが、英語を使う機会が欲しくて、無謀にもホテルのフロントに「モーニングコール」をお願いする電話をしてみることにしました。

 

その結果は、見事惨敗。笑

 

色々なことを聞かれたみたいなのですが、全く分からずイエス、イエスだけを繰り返し、ただ怖くて受話器を置きました。

 

それはとてもショックな出来事でした。ラジオや曲で流れる綺麗な英語は聞ける気になっていたけど、私はコミュニケーションというものは全く出来ないんだ、話せないんだと知ってしまった瞬間でした。

 

それからは前回お伝えしたように、高校での2週間のオーストラリア語学研修、そしてアメリカの大学への入学につながっていきます。

 

今回のテーマ最後のお話になりますが、海外に行って私がいつも感じる事は、「裸の自分が試されている」ということです。日本は特に、均質性の高い社会なので、例えば出身地とか、出身大学とか、勤務先とかを話せば、なんとなくその人の属しているグループというか、どんな人生を歩んできたか分かったような気になってしまいます。良くも悪くも。しかし海外ではこうはいきません。私が、立命館大学とAmerican Universityを卒業して、Osaka出身で、こういう会社で働いていてと説明しても、伝わるものはずっとずっと少ないと思います。

 

そんなことよりも、海外の人たちがもっと知りたいのは、私が何を好きで嫌いで、何に笑って怒るのか、どういう性格の人間なのか、そして日本はどんな国なのか、だと思います。

アメリカに最初着いた頃は授業でみんなが話している事がほとんど分からず、授業からの帰り道1人でよく泣いていました笑。またガーナでは違いすぎる生活環境、価値観、どこに行っても外国人扱いされることに怒り、悲しみ、何度ひっそり涙を流したか分かりません。

 

それでも、そこにいたかったのは、生まれ育った環境がどんなに違っても面白い事で同じように笑えた瞬間、一緒に大変な状況を乗り越えた後の喜び、そんな素晴らしいかけがえの無い瞬間がたくさんあったからだと思います。

 

そして、「裸のままで勝負した自分」はいつも前よりも少し強く、たくましくなっている気がするのです。

だから私はこれからも、世界の人々、国のことをもっと知っていきたいし、日本のことを世界に知ってもらえるように、世界とつながりながら生きていきたいと思うのです。

写真は意味のよく分からないポーズのシンガポールでの写真(笑)と、中学時代のものです。

それでは次回は、なぜガーナに行こうと思ったのか?をお話ししたいと思います!

 

 

Kana Aikawa

ガーナ発kawaiiコスメ作りを目指す相川香菜です!

 

みなさん、はじめまして

ガーナ発kawaiiコスメ作りに挑戦中の相川香菜(あいかわ かな)です!

自分の思いをみなさんに聞いていただけるこのような貴重な機会を得られた事大変光栄に思います。

ありがとうございます!

 

今回は、記念すべき初回ということで時系列で自己紹介をさせていただこうと思います。

 

【略歴】

●1985年 大阪市生まれ

●幼少期

おかっぱ頭の1人で人形遊びするのが好きな人見知りがちな子供だったみたいです。

●小学校時代

勉強らしい勉強は宿題くらいしかせず、放課後は毎日泥だんごを作ったり、変な植物を見つけてたりして友達と日が暮れるまで遊んでいました。

夏は真っ黒に焼けて体が細かったので、ごぼうみたいでした笑。

 

●中学校時代

小学校時代に仲の良かった友達と一緒にいたいという理由で見学に行った吹奏楽部になんとなくそのまま入部し、本当は友達と同じクラリネットを希望していましたが、顧問の先生の「お前は歯並びがいいらトランペットを吹け」の一言で3年間トランペットを担当。吹奏楽コンクール、マーチングコンテストなどに出場するなど熱心な部で、吹奏楽一色の学生生活を送りました。

3年間で自分に音楽の才能がないことはよく分かってしまったけれど笑、音楽を聞くのはとても好きになりました。

また中学時代にはシンガポールへの海外家族旅行でのショック体験から英語を勉強する事を決意しました。

 

●2001年 私立大阪学芸高等学校普通科 国際コース入学

高校2年生の時に学校主催の語学研修で2週間メルボルンにホームステイし、英語力の成長を感じ大学ではもっと本格的に勉強したい、もっと違う世界が見てみたいと強く思うようになりました。それからは英語だけは受験勉強に関係なくずっと勉強していました。

 

●2005年4月

立命館大学 国際関係学部国際関係学科入学

 

●2005年8月

立命館大学と米国ワシントンD.CにあるAmerican Universityとの学部学位共同プログラムに参加し、米国に渡航

●2007年9月

American Universityでの単位を修了し日本に帰国、立命館大学の3年生として復学

 

●2010年3月

立命館大学 国際関係学部

American University  School of International Service

両大学卒業

 

●2010年6月〜2012年6月

JICA青年海外協力隊の村落開発普及員としてガーナ北部の州都タマレから車で30分ほどの村落部で活動を行う現地NGOに派遣される。活動中は村落部に居住し、周辺の小学校4校で現地入手可能な材料を活用しながら算数、日本語、図画工作の授業、衛生に関する啓発活動などを行う。同時にシアバターを生産している女性たちを組織化し、ガーナ国内で活動する他のボランティアにお土産物として購入してもらったり、シアバター生産の現場をみる見学ツアーを企画したりする。

 

●帰国後

大阪の翻訳会社に勤務、起業準備をしつつ現在に至ります。

 

写真は幼少期、小学校時代のまだ可愛らしい時代のものです笑。

次回以降はなぜそもそも海外に興味をもったのか?なぜガーナなのか?なぜガーナでkawaiiコスメなのか?などをどんどん書いていきたいと思います!

よろしくお願い致します!

自己紹介(つづき)

こんにちは。室伏陽です。

初投稿では簡単な自己紹介と最近立ち上げた会社(And Africa)のご紹介をさせて頂きました。

今回は、もうちょっと踏み込んで自己紹介します。全然写真と関係ないですね。。

アフリカでの挑戦とはかなり離れていますが・・。徐々に繋がっていきます。笑

 

<And Africaを起業するまでの経緯>

前回簡単に触れた「起業するまでの経緯」について、詳しくお話させて頂きます。

 

僕は学生時代、東北は宮城県仙台市に6年間住んでいました。

2011年、僕が大学院1年生の時に大震災、「就職氷河期」と言われる時代の就活を経験。

当時は震災によって多くの人が命を失い、しかもそれは自分の誕生日に起きました。重ねて、就活市場は自分ら学生にとって非常に厳しい。

 

2011年は激動の年でしたが、それらの出来事を経て、「与えられた生をいかにして全うするか?」を真剣に考えました。

当時僕は理系学生でしたが、研究室の電気が止まって実験も出来ない期間、ひたすらそんなことを考えつつ、全国をあてもなく旅行していました。

色々ぐるぐるしましたが、自分の中で、何か「思考の結晶」の様なものが形になってきました。

それは、

 

「自分の努力が誰かの幸せに繋がっていき、それが巡って自分の満足に返ってくる」という経験を多く積みたい!

 

というもの。

 

それも、

 

「自分しか出来ないことで!」

 

という、わがまま?なおまけ付き。

 

自分のためにストイックに努力出来る」といった点については元々自信があったのですが、「努力の方向性を他人ではなく自分でデザイン出来る様な生き方をしたい!」、そんな青臭い?ことを思っていました。
就活というきっかけを通して、将来の選択肢について色々話を聞いて見ましたが、そんな生き方が出来そうな?「起業」という選択肢に最大の魅力を感じます。

思い描く生き方をするためにはまず、「努力の方向性を正しくデザイン出来る能力」が必要でしたが、それは広義でマネジメント力に含まれます。

そこで、マネジメントを最も効率よく学べる業界としてコンサルティング業界にてしばらく修業することを決めました。

起業を見据え、小規模な会社の経営を丸ごと俯瞰して「経営とは何か?」をざっくりと学びたかったので、コンサルティングファームの中でもクライアント規模の小さいファームを志望し、企業再生のコンサルティングファームに入社。

そこでは、小規模な会社を全体的に支援させて頂く経験、企業が窮境に陥るまでのいくつかのパターン及びそれらの解決のパターンを学ばせて頂きました。

 

その後、各業界の大手一流企業と言われる企業をクライアントとする大手コンサルティングファームに移り、日系企業の事業拡大・海外進出支援・新規事業立案などをご支援させて頂きました。

 

コンサルティングファームにて、いわゆる激務な日々を過ごす中、漠然と葛藤を抱え始めます。

それは、

 

「ビジネススキルはついてきたけど、自らリスクをとってプレイヤーとして勝負してないな〜(早くしたいな〜)」

 

とか

 

「努力しても、それが自分の満足になかなかかえってこないな〜」

 

というもの。

 

正直、これはスタートアップを覗く一般企業に勤める若手ビジネスマンには難しいことだとは思いますが。。。

元々、努力の方向性を「自分のオリジナルな方法で、他者が喜ぶ何かをしたい」「(その結果として)自分に見返りが欲しい」なんて想いで起業したいと思っていたのでこの葛藤は中々拭えません。

 

修行目的で入ったコンサルティング業界。気づけば5年が経過していました。

「そろそろか・・。」

そんな想いが日に日に強くなっていく・・。

 

そんな最中、アフリカ市場における自動車部品のマーケットプレイス事業を志す人と出会い、アフリカ市場に関する情報を本格的に収集、整理し始めます。

調べれば調べる程、単に「アフリカ」という大陸レベルで認識していた異国の地を知っていき、その奥深さと可能性に魅せられる様になっていきました。

コンサルティング会社に在籍してプロジェクトの仕事に忙殺されながらも、空いた時間を使ってアフリカ市場に関する情報を一心不乱で集めました。

 

その事業の検討を共に進める内に、共に起業しないか?という誘いを受けます。

正直なところ、自動車部品に知見があるわけでも興味があるわけでもなかったのですが、ぐるぐるとした期間を過ごしていたのと、起業家としての第一歩目を成長市場において踏み出すことへの魅力から、共に起業することを決意。

 

そうして、東アフリカを対象とした自動車部品のマーケットプレイス事業を共同で立ち上げます。

※そのあたりは、以前インタビューして頂いた際にお話しさせて頂きました(http://freeconsultant.jp/workstyle/w028

 

事業を進める中、現地に出向いて市場調査を進めていきました。

 

現地のリアルなビジネス環境を知っていく中で、気づいていくことがありました。

それは、

・自動車に関連する事業においては日系企業のプレゼンスがアフリカでは非常に高いものの、他の業界では中国・インドなどの競合国と比較し非常に低いこと

・同時に、現地の人からの日系企業の進出を願う声や、広く浸透している中国製品・サービスへの不満の声が多い

・一方、日系企業には意思決定のスピード感および現地の消費者に受け入れられるためのローカライズが圧倒的に不足している

ということ。

 

求められている部分が確実ある中、そこにミート出来ていない状況がある。

ここを好転させるのに、これまで培ってきたスキルを使うことが出来ないか?

自身のスキル・強みをフル活用でき、かつこの様な状況を好転する一助になれる事業として「自社の製品・サービスの現地における需要を低コストかつ簡単にテスト出来るサービス」のアイデアを考えました。これが、「テストマーケティング事業」です。

当該事業を専任する会社として、And Africaの立ち上げに至りました。

僕もイチ日本人として、「日系企業のプレゼンスを底上げしたい!」という野望もあります。

 

そんな壮大なビジョンを実現させるために、自分のエネルギーを使うことができる。

 

これは、学生時代に思い描いていた人生ビジョンを体現出来る、本当に素晴らしいことだな!

と一人密かに感じています。

何より、どんどんエネルギーが湧いてくる仕事です。自然と頑張れちゃいます。

 

「日系企業のアフリカ市場におけるプレゼンスの底上げ」

 

これが、今現在、僕が実現に貢献したいビジョン。です。

 

 

 

・・・長くなりましたが、自己紹介でした。

 

次回以降は、アフリカの状況についての投稿を開始します〜

「世界的に最も注目を集める新進気鋭の建築家」

One and only David Adjaye, amazing architect of our time...

One and only David Adjaye, amazing architect of our time…

(英語のあと日本語)

We’ve had an amazing opportunity to visit the NYC office of Adjaye Associates and to meet up with its director David Adjaye yesterday.

David is one of the most successful architects and he’s worked on multiple projects around the world including the most recent one – the National Museum of the African American History and Culture in Washington DC.

Lately he and his firm are doing more and more project in the African continent. According to Vogue interview, “[h]e’s done a beachfront house for former U.N. Secretary-General Kofi Annan in Ghana, and the Alara Concept Store in Lagos, Nigeria. He’s currently working on a slavery museum in Cape Coast, Ghana; a state-of-the-art children’s cancer hospital and teaching center in Kigali, Rwanda, the first of its kind in Sub-Saharan Africa; a World Bank headquarters in Dakar; and a high-rise apartment building in a former “no-go zone” of Johannesburg.”

David is a Ghanian-British who was born in Tanzania, but in terms of the scope of his work and his mind, he is truly global. That’s why we look up to him.

We had a great conversation, got lots of advice, and will be in the loop for his upcoming projects…


(なんと!)「世界的に最も注目を集める新進気鋭の建築家」という修飾語のもと作品集も日本で出版している建築家、David Adjayeの建築事務所Adjaye Associatesのニューヨークオフィスで、多忙なDavid本人とミーティングをしてきました。

Davidは、成功を収めている建築家の1人であり、最近満を持してオープンした、ワシントンD.C.のアフリカンアメリカン歴史文化博物館の設計を含め、世界各国でプロジェクトを行っています。

昨今は、アフリカ大陸でのプロジェクトにも積極的です。Vogueのインタビューによると、「前国連事務総長のコフィ・アナン氏のガーナの別荘、ナイジェリアのラゴスにあるコンセプトショップアララなどのプロジェクトを手がけ、現在は、ガーナのケープコーストでの奴隷博物館、ルワンダのキガリでの最先端の小児がん治療・教育センター(同様の施設はサブサハラアフリカで初)、ヨハネスブルグの元立ち入り禁止区域での新しい高層アパートの建設などを行っています。」

Davidは、タンザニア生まれのガーナ・英国人で、自身のアフリカのルーツに対する敬意がありつつ、彼の仕事のスコープや考え方は、非常にオープンでグローバルです。そういう意味で、我々が非常に尊敬している存在です。

実際、非常に素晴らしい対話をし、多くのアドバイスを受け、今後も彼らの新規プロジェクトへの貢献も踏まえた対話を続けていく予定です。協業含め、今後の展開が楽しみです。