壁にぶつかっても

 

新年早々、ぼくは東京へ向かった。腕利きの仕立て屋が銀座にあると聞いたからだ。トーゴから持って帰ってきた生地は、京都の職人に鮮やかに染めてもらった。この染める過程でも、1グラム単位で修正しながら色出しをして、納得いくデザインを施した。12種類くらい染めてみたものを、ハイブランドのセレクトショップのバイヤーに見てもらったり相棒と相談したりして、3種類くらいに絞り込んだ。

 

それを一度、形にしたい。どのような形にするかで、普段づかいができそうなジャケットに議論が落ち着いた。ジャケットを仕立てるために、12メートルくらいの生地を担いで銀座に降り立った。

 

オーナーと話し合い、生地をみてもらったが、その場では判断がつかなかった。ジャケットのフォルムを決めて、採寸して、オーダーした。しかしその3日後に相棒から連絡があった。

「あれではできないとのことです。」

 

その理由は、すこし頭にあったことだが、やはり生地の強度が弱いということだった。繋ぎ目の部分が弱い。もしアパレルでやるなら、現状の13cm幅を繋ぎ合わせたものではなく、最低でも60-70cm幅のものを繋ぎ合わせなければならない。

 

そうなると、設備の変更が必要だ。再び、トーゴへ行く必要が出てきた。壁にぶつかっても、それは諦める理由にはならない。何度でもぶつかってやる。2019年は、波乱の予感がする。

今年の漢字は、「激」。

2018年が終わる。今年は自分史上、最も「激」しい一年だった。

丸4年勤めた金融機関を退職し、アパレル業界へ飛び込んだ。会社の設立日と同日に、人生のパートナーと入籍し、来月には子どもが誕生する予定である。多くの人たちから応援のメッセージをいただいたが、それと同じくらい厳しい言葉も頂戴した。これから築いていく家族のことを考えれば、金融機関を辞めるのはナンセンスだ。一方で、人生を賭けて挑戦したいと思えることに出会えたのは、とても幸運だと思う。

 

大きな葛藤をもったまま彼女のご両親のもとを訪れ、思いの丈を伝えた。しばらく沈黙があって、ただ一言、「ビジョンだけは大きく持つように」と。思うことはたくさんあったと想像する。それらをすべて超えて、今となっては熱烈なサポートを頂いている。応援してもらえるうちは、夢を大きく描いてもいいのかもしれない。

 

ド素人の挑戦は、やはり、まだまだ道半ばだ。しかし確実に少しずつ前に進んでいる。実際、現地法人を設立し、素材を仕入れてきた。腕利きの仕立屋と連携することが決まり、来月下旬ごろには記念すべき第一弾の商品が完成するのだ。自分たちがアクションを起こしてきたものが形になっていく喜びを噛みしめて年末を迎えた。来年は、魂を込めた商品をお披露目する。ワクワクドキドキ。胸の鼓動は、激しい。

 

何度も、やってみる。

決してアクセスがいいとは言えない場所に、職人の工場はある。最寄り駅からバスで20分くらい乗り、15分くらい歩かなければ辿り着けない。しかしそんな場所に、ルイヴィトンやエルメスの担当者が、通訳とエージェントを引き連れて、フランス・パリから訪れる。そこでしかできない加工があるからだ。

 

大量生産・大量消費の流れもあって、テキスタイルのほとんどは、インクジェットプリントへ移行した。一度にたくさん、均質のものを。規模の経済性を発揮し、コストダウンを図る。それは市場経済の行きつく先としては必然だった。時代に翻弄された京都の染色工場の多くは、廃業を余儀なくされた。それは人々が望んだ結果でもあった。

 

いま、手染めで染色を施せる工場は激減している。昨日も職人のもとへ行って近況を聞いてきたが、先週も2軒が店を閉めたという。とくに今年の冬は厳しい。ぼくたちは、3枚1,000円のシャツで事足りるのだ。アパレル業界は必死のパッチで販促するが、ブランディングを成功させた一部にお金は集まる。これまで職人一筋でやってきた人たちにとって、「ブランディング」という言葉ほど対極にあるものもない。

 

ぼくは、職人は職人であってほしいと思う。愚直に、いいものを突き詰めてほしいと思う。時代がそうさせてくれなくても、ぼくは抗いたいと思う。出口戦略を練るのは別の人が担当し、職人は専念する。そうしようと思えば、チームをつくるしかない。ぼくは京都の職人、クリエイター、テキスタイルデザイナー、コンサル、学者の方など10人ちかくのチームメイトと話し合いを重ねている。

 

↑話し合ったことを形に落とし込む

 

モノづくりがこれほど果てしないとは思っていなかった。道のりは遠い。何度も足を運び、色を確認しながら、もう一度やってみる。そんな作業を繰り返している。

子どもたちを前にして

ここは、子どもだらけの国だ。感覚的には、だいたい3歳くらいの子どもたちが、そのコミュニティの大半を占めている。感じていたエネルギーの源は、ここにあったのかもしれない。

そこかしこで子どもたちの陽気な遊ぶ声がきこえてくる。太陽のにおい、空の高さ、風の音。感覚が澄んでいくのがわかる。こういう感じは、喧騒のなかで生活していては気づきにくい。

ぼくらはすこし、がんばりすぎているのかもしれない。肩の力をぬいて、穏やかに生活してもいいのに。

 

とにかく、前へ。

これまで金融機関でしか働いたことがなく、デザインやファッション関係の学校にも行ったことがないぼくにとって、アパレルへの挑戦は死ぬほど難しい。

ただ動いているといいこともあって、そんなぼくを哀れに思って助けてくれる人たちが集まってくれている。どのみち、仕事は一人ではできない。たくさんの頭で考えたことを、たくさんの仲間と一緒にぶつかるほうがいいということをトーゴでの現地法人設立のときに強く思った。

 

そこで今は、わからないなりに一度モノをつくる作業を進めている。どうなるかわからない状況では、とにかくやりながら反省をして前に進む方法以外に、ぼくは知らない。エウェ族が丹精込めて織り込んだ品物に光を当てる。手作業でしか生み出さない価値が、そこにはある。そしてそれは大量生産・大量消費のモノづくりに一石を投じることにもなると思っている。

 

今日も京都の職人のもとで商談をしてきた。とても寒い日だったが、職人は冷たい水に手を突っ込んで染めを施してくれている。鼻水を垂らして、爪のあいだの染料を光らせながら職人は言った。

「おもろいもん作るで、諦めたらそこで試合終了や」

半世紀近くにわたって仕事に向き合ってきた人の言葉は、シンプルなのに勇気が出る。トライ&エラーで、とにかく前へ。

惨敗を喫する

ぼくたちのモットーは、試しにやってみることだ。「始めからできたら男前、できなくて当たり前」とも言うし、できないことから始まる可能性に賭けるのが、ぼくたちのやり方だ。でも、ほんのちょっとだけ、男前だと思っていたところがあったのかもしれない。大都会・東京で苦汁をなめる結果となった。

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↑ケチョンケチョンにされた相棒
 この4ヶ月半、死ぬ気でやってきた。累計して164人の方々にアドバイスを頂きながら、日本から13,000km離れたトーゴという馴染みのない国に往復5日かけて行き、言葉の通じない現地の職人と交渉して何とか調達できた素材を持って、京都の職人のもとへ駆け込み、少しずつ形にしてきた。道の途中ではあるが、形になってきたものが、市場でどのような反応を受けるのか知りたくて、東京に乗り込んだ。

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↑会社の全財産をスーツケースに詰め込んだ
 東京は、多種多様なコレクションブランドをラインナップする世界でも珍しい都市だ。そんな都市の第一線で活躍するバイヤーたちの審美眼で、ぼくたちの魂を込めた商品を見てほしい。なぜかぼくたちは自信があって、彼らの度肝を抜き、商品を詰め込んだスーツケースが空っぽになるイメージをしていた。しかしスーツケースの重さは変わらなかったし、なんならテンションの分だけ帰りの方が重く感じた。
 ぼくのせいで、商談では相棒と店員さんが喧嘩みたいになってしまい、得も言われぬ空気が流れた。お互いに真剣だからこそヒートアップする。伝えたいことが伝えきれない歯がゆさ。言葉ではなくて、もっと深いところの何かが足りない。
 いつのまにか、スーツケースのコロコロは壊れていた。自分たちを奮い立たそうとして、一本の缶ビールを二人でわけて飲んだ。これが限界だと、言い訳をしてみたりした。ぼくたちは見事なまでの惨敗を喫した。
 帰りの駅のホーム、たまたま隣に並んでいた女の子がドリカムの「何度でも」を歌っていた。「10000回ダメでヘトヘトになっても、10001回目は何か変わるかもしれない」と。うまくいかないことが、諦める理由にはならない。力をつけて何度でも戻る。東京の寒空を見上げて、ぼくは白い息をはいた。

バイクタクシーから見る生活水準

 

西アフリカの小国・トーゴ共和国は、いわゆる「世界最貧国」として位置付けられる。個人的に、それは先進国が定めた尺度でのポジションでしかないし、いろんな価値尺度があるなかで、その意味合いも薄れつつあると思っている。しかしその世界最貧国とされる国に住まう人たちが、どれくらいの水準で生活しているかという事例は、ミクロな視点ではあるものの、全体をうつす一部であるような気がしている。そういった統計情報もないので、現地の主要産業であるバイクタクシー(ゼミジャンと呼ばれて親しまれている)の運ちゃんの単月収支を、備忘のためにも残しておこうと思った。

 

バイクタクシーは、営業するエリアによって金額の多寡はある。ここではトーゴ共和国の首都ロメから125km北上したパリメというエリアの、34歳男性の事例を挙げる。配偶者と娘3人(小学3年、2歳半、6ヶ月)、配偶者の母の6人家族だ。

 

※トーゴ共和国で流通する通貨はセーファーフラン(以下、cfa)で、だいたいcfaを5分の1した金額が日本円になる。(たとえば、10,000cfaは2,000円くらい)

 

彼の勤務時間は、朝5時から12時、15時から18時までの計10時間である。日によってバラツキはあるが、10時間働いて、7,000cfaから10,000cfaくらい稼ぐ。トーゴは乾期と雨期しかないのだが、雨が降れば、基本的に外出しないので、雨期には売上は下がる。月収は、210,000cfaから250,000cfaくらいだ。

トータルの支出は214,000cfaくらいで、その内訳は以下のとおり。

・食費75,000cfa

・電気代2,000cfa

・家賃5,000cfa(トタン屋根で8畳ほどの大きさの部屋)

・電話代6,000cfa(キオスクなどでクレジットを購入し、チャージするスタイル)

・ガソリン代66,000cfa(ガソリン1ℓ=500cfaくらい。1日2,500cfaがガソリン代に消える)

・バイクオーナーへ60,000cfa(バイクは一括購入できなければローンとなる。市場ではバイク1台320,000cfa-390,000cfaで取引されるが、ほとんどの労働者は一括購入できない。パリメでは資産家にバイクをローン購入することになればトータル700,000cfaを支払うことになる。資産家に1週間、15,000cfaを支払う。)

加えて、毎日バイクを走らせれば修理もしないといけないし、子どもが風邪になれば薬を買わなければいけないし、教材を購入していくとなると、おおよそ1ヶ月240,000cfa前後が必要となるから、とても余裕がある生活とは言えない。

 

バイクタクシーは腰への負担が大きく、また後部座席に人や荷物を乗せて神経を使いながら運転するために、肉体的にも精神的にもダメージが大きい、と彼は話す。競合他社が増えたことで運賃が下がり、ガソリンの値上げもあったので、業況は厳しくフラストレーションを抱えている印象も受けた。

 

 

京都の職人のもとへ

トーゴから帰国してすぐに、京都の職人のもとへ駆け込んだ。ご自身で創業されて半世紀。独自に染色技法を生み出し、ルイヴィトンやエルメス、イッセイミヤケなど、名だたる国内外のハイブランドからのオファーが絶えない職人だ。

なぜトップクリエイターが、京都の職人のもとへ足繁く通うのか。世界広しといえども、ここでしか出来ない染色があるからだ。その高い技術は、想像を絶する失敗に裏付けされている。お話を伺うと、幾度となく失敗を重ね、しかしその失敗こそがヒントになり、画期的な技法を生み出してきた。広幅(112cm幅)の手染めができる工場はここにしかない。手作業の味わい深い染色が、ここにはある。

 

「おまえホンマに持って帰ってきたんかいな」と呆れた顔をされながらも、「その生地、はよこっち持ってきい」とワクワクされている。

しかし、じっくり現物をみて、ボソッと口にしたのは「これは難しい」という一言だった。長年にわたって様々な生地をみてきた職人でさえも、トーゴという馴染みのない国から持って帰ってきた代物は初めて見たという。

 

ぼくが持ち込んだケンテと呼ばれるアフリカ布は13cm前後の布を繋ぎ合わせたものだ。それが面白いと思って仕入れてきたのはいいものの、その繋ぎ目の弱さが染色加工で大きなネックとなることを、そのとき初めて知った。

 また生地をもった感じが、ほかのものと比べると、すこし重いことも懸念事項として挙げられた。服にしたとき、重量感が出るため、レディースには向かないのではないかという意見を頂いたのだ。
ぼくはとても嬉しい気持ちになった。課題が明確になったからだ。繋ぎ目を活かすことができて、多少の重量感があっても楽しめる完成品はなにか。そんなテーマでモノづくりを進めることができる。ある程度、制限があるほうがクリエイティブな発想が出やすいと、なにかの本で読んだことがある。そういう意味で、職人の目に触れたことは大きな一歩となった。
 実際に染色を施したらどのようになるのか。数百あるデザインから、選りすぐりの10種類をピックアップし、色合いをみんなで相談しながらオーダーした。
気づいたときには日が暮れていた。職人は言った。
「昔はおまえみたいにアホなこと考えて訪ねてくるやつも多かった。みんなで輪になって話し合って、たまに喧嘩もしながらモノづくりをしたもんや。でもいまは全部パソコンやもんなあ。」
パソコンでは味わえない体験がある。人が生み出す体験が人の心を動かすと思う。一歩ずつ、前へ。みんなの気持ちをのせて、カタチにしていく。

 

弊社オリジナル商品の開発

アフリカ×京都のモノづくりをする。アフリカ・トーゴにある素材と、京都の伝統技術を組み合わせる。トーゴでピックアップする素材は、ケンテというアフリカ布に決めた。それも、かつては王しか身につけることができなかったとされる、オーガニックコットンのケンテだ。しかしそれを京都の技術と組み合わせようと思えば、1cm単位の調整が必要だった。

 

ケンテは13cm-15cm幅の布を10枚繋ぎ合わせてつくるから、出来上がりは130cm-150cmとなるが、京都でアパレルの手染めを施そうと思えば、112cm-114cmに収めなければならない。オーダーをお願いしたところ、ケンテ職人の親方は「臨むところだ」と胸を張ったが、それからぼくはメジャー片手に何度も現場へ足を運んだ。

 

既存の受注があるなかで、初めてみるアジア人が、すべて白地で、しかも幅の指定をするという「めんどくさい」仕事だった。お願いをしているこちらも申し訳なく思うくらいに、彼らは炎天下、汗を光らせながら手に意識を集中させ、まばたき一つせず微調整を重ねてくれた。「決して無理はせずに、そちらのペースで出来たぶんでいい」と言ってはいたものの、果たしてどれくらいできるのかという不安と、どんな感じになるのかという期待が交差して、なかなか眠れなかった。

 

そんな夜、気分を整えようと外に出て歩いていると、ラジオから流れる音楽と、聞き慣れたカチャカチャという音が聞こえてきた。

 なんと、彼ら職人は夜通しで生産にあたってくれていた。ぼくは急いで「そこまでやらなくていい、帰って寝てくれ」と声を掛けに行った。すると親方は、「おまえは約束を守るためにこんなところに帰ってきたんだろ。だからオレも約束を守る。受けたオーダーは、きっちり揃えて納めてやる」と胸に手を当てた。
 お調子者で、ムードメーカーのヤオヴィは「これが日本に行くんだろ。車はTOYOTA、エレクトロニクスはTOSHIBA、ケンテはTOSHIHARU(わたしの名前)だ」とエウェ族独特のダンスを踊りながら言った。
そうして、納期の10日以上も早く、圧倒的な職人技を見せつけられて、京都の112cm幅に対応するオリジナルのケンテが出来上がった。独特の、ケンテならではの風合い。これを次に繋げる。考えられるなかで、一番可能性が広がりそうな、京都の職人のもとへ。
 職人の手から、職人の手へ。手作業だからこそ、手の温もりを伝えられる。いつの時代も、人の気持ちを動かすのは、人だと思う。その温もりある人たちの顔が見える商品ができたとき、響いてくれる人は、きっといるはずだ。

 

現地法人を設立しました

土地が決まって、その土地を耕すところから店づくりはスタートした。ハンマーと鍬とスコップと。マンパワーで掘り起こす。これまであまりスコップなんて握ったことがなかったので、すぐにマメができた。マメが潰れて血が滲んだのは中学生ぶりだ。

 

炎天下での作業は過酷を超えて、危険ですらある。日差しが痛くて、首と腕に軽く火傷を負いながら土を穿つ。セメントを購入して、土を混ぜてコンクリートブロックをつくる。近くに流れる小川から水を汲むのも一苦労である。なんて自分は体力がないのだろうと情けなく思いながら、周りのサポートは強力で、人が人を呼んで、ものすごい数の人たちが助けてくれたりした。

 

「トシは約束を守るために帰ってきたんやろ。俺も約束する。トシが日本に出発するまでに完成させる。」とリシャは笑って、ぼくは泣いた。行動を起こせば起こすほど、自分の無力さを知る。知るからこそ、まわりと一緒にやらないと前に進まないことを痛感する。気づけば40-50人体制で店づくりをしていた。

 

ぼくが大してお金を持っていないことは、周知の事実であったので、ペンキ塗りの友だちが「出血大サービスだ」と社名を綺麗にプリントしてくれた。なけなしのお金を渡そうとすると、人差し指と人差し指を交差するようにして、「俺とお前は繋がっている。金じゃない、友情だ」と突き返された。

 

そうして出来たお店は、みんなの思いが詰まっている。トーゴ共和国で、日本人第一号となったお店のまえで、ぼくたちはビールで乾杯した。

 

[現地法人情報]

ETS : AFURIKA DOGS

adresse : sur la route d’Atakpamé non loin de lycée de Kpodzi à côté de bar Albatros Kpalimé, TOGO

tél : (+228)93 31 11 58, (+228)98 41 17 09

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