ほかと違っていることが価値になる

トーゴは可能性に溢れている。天然のコットンが採れるし、ここの民族しか持ち得ない技術があって、なにより穏やかで明るい人が多い。首都からタクシーで2時間半ほど北上したところにあるパリメという町は、6年前に、また戻ってくると約束した地でもあるが、市場調査に出ても、モノづくりに取りかかっても、そこで出会う人たちはいい人ばかりで、とてもフィーリングが合う。

 

ここに拠点をつくる。土地は意外にも簡単に見つかった。不動産屋みたいなものはないから、口コミで空き地を探す。2人くらいに聞いて、7ヶ所くらい候補があがった。特段、土地にこだわりもなかったので、外国人が入ってもお邪魔じゃなさそうな、すこし町から外れた山の麓の土地に決めた。

 

そこは身の丈以上の草が生い茂るエリアで、ぼくは草刈りから始めた。マルシェでナタを購入し、茂みに入って草刈りをしていたら、たまたま通りかかったおっちゃんに声をかけられた。

そのおっちゃんは、役所のお偉いさんで、「せっかく初めて日本人が会社をつくるんだ、もっといいところがある」と大通りに面した土地を紹介してくれた。

 

役所に事業申請を出すときに、大切なことは「ほかと違っていること」である。たとえば、そのエリアに飲食店が多いのに飲食系の仕事をするとなると、お客さんの奪い合いになり、地域経済によくない。だから、そのエリアで誰もやっていない、もしくはやっている人が少ないことをしなければならないのだ。

そういった理由で、事業をはじめる土地を変更しなければならないことは往々にしてある。

 

拠点をつくるにしても、どのような場所づくりがいいのか。単純に事務所のようなものをつくっても面白くないし、ここの人たちの生活にも馴染まない気がしたので、近所の人たちに相談している。その地域に住まうおばちゃんたちの家を訪問したり、屋台が出ているところにタムロしている人たちと、どんな場所がいいだろうかと思案している。

みんなで考えて、みんなでつくる。そうして出来たものだったら、この地域の人たちは、ぼくを受け入れてくれるだろうか。そんなことを思いつつ、たくさん葛藤しながらも、一歩でも前に進めたらいいなと思っている。

 

 

 

アフリカ×京都の商品をつくる

アフリカ×京都の商品をつくる。アフリカの素材、ケンテに京都の伝統技術を駆使した染めを融合させる。大将は早速、白地のピュアケンテの製造に入ってくれた。

京都の染めを入れるには1cm単位の調整が必要だ。ケンテは、13cmから15cm程度の幅の布を10枚つなげて1枚の布に仕立てる。したがって、出来上がりの幅は130cmから150cmとなる。しかし、京都の職人技を入れようと思えば、112cmから長くても114cm幅に収めなければならない。

 

かつて、着物産業で栄えた京都・嵐山にはたくさんの染工場がある。染工場は大きく2つに分かれる。①小幅と呼ばれる90cm幅のものを染める工場と、②広幅と呼ばれる112cm幅のものを染める工場である。①は着物に用いられ、②は洋服に用いられる。圧倒的に①の工場のほうが全国的にも多いといわれ、②の工場で、かつ手の込んだ染めができる工場は、世界広しと言えども京都にただ一つしかない。

 

ぼくは②の工場に染めをお願いする約束をしている。大量生産・大量消費の流れのなかで、②のような広幅の手染めのものは衰退していた。職人の手仕事が、ここでも失われつつあった。業界全体では衰退傾向にあるものの、そこの職人技は一級品である。

わざわざフランスのパリから、エルメスやルイヴィトンの担当者が、通訳とエージェントを引き連れて、その工場を訪れる。そこしかできない仕事があるからだ。パリコレクションでも大きな評価を得る仕事が、京都にはある。

 

その一級品の京都の職人技を、西アフリカ地域の最高級品とされるケンテと融合させる。それはアフリカの職人と京都の職人とのコラボレーションでもある。

課題を解決しようとするとき、最終財が売れなければ解決には向かわない。だからこそ、できあがりの商品には魂を込める。そんな商品は、きっとお客さんにも響く。

 

そんな思いを、ケンテ職人の大将にぶつけた。「1cm単位の仕事はこれまで受けたことがない。臨むところだ。」

京都の職人にも連絡を入れた。

「おまえホンマにやってるんかいな。帰ってきたらすぐこっち来い。いの一番にやったるさかい」

 

彼らの職人魂に、火がついた。

 

 

 

 

フルオーダーのケンテ、生産開始

ケンテ職人のもとに通い詰める。

京都でいうところの、「一見さんお断り」である。

マルシェに出回らず、ごく一部の王族、役人、エリート層にしか販売しないというコットンピュアのケンテ。マルシェで販売されているものも、確かにいい。しかしコットンピュアのものは肌触り、風合い、オーラがちがう。

 

6年前、トーゴの友人と「みんなが笑って過ごせる世界をつくろう」と約束した。障害者差別の現実。それを打破したいと願う友人と語り合った夢だ。目の見えない人は、たとえば一般の人に比べて、耳が良かったり、感触をもって的確に判断することができる。耳のきこえない人は、察する能力が高かったりする。個性的は、魅力的だ。それぞれの個性を活かしたチームをつくる。

モノづくりであれば、それぞれが個性を活かし合って仕事ができる。そんなことを、ケンテ職人の大将に直談判した。

 

夜な夜な通い詰めた甲斐もあって、ついに大将が折れた。

「おまえみたいなクレイジーなやつは初めてだ」と。

話を聞くと、従業員も大将にお願いしてくれていたらしい。大将のところへ行くまえには必ず、従業員と話をしていた。現地語で挨拶をしながら、徐々に距離を詰めていたことが功を奏した。

 

とにもかくにも、完全フルオーダー、コットンピュアのケンテの生産を開始することができた。

「早速、材料の買い付けに行ってやる。トーゴのコットンピュア、腕利きの職人たち、俺らがどれほどすごい仕事をしているか見せつけてやる」と大将はハニカんだ。

 

 

 

日本人初、トーゴに会社をつくる

 

エウェ族が大半を占めるパリメは可能性に溢れている。手作業の代物、西アフリカ地域の最高級アフリカ布であるケンテ。そしてそのケンテの原材料となるオーガニックコットンが、ここにはある。その手触りはマルシェで出回る布とは桁違いに、いい。トーゴで、いわゆる6次産業化を目指す。コットンを育て、加工し、販売する。そのサプライチェーンを構築する。しかし、トーゴで会社をつくった日本人は居ない。それほどまでに、日本人が少ない国なのだ。

↑そのへんに生えているコットン

 

どこの誰に何を聞いたらいいのかもわからないところからスタートしている。しかし幸運なことに、6年前の友人たちから多大なサポートを受けて、少しずつであるが前に進んでいる。

2日前に事務所建設の候補地が見つかったところであるが、果たしてどこまで進めることができるのか。

 

「何事もそうだが、やってみないとわからないだろ」とアベルは言った。

「早く行くなら一人で、遠くへ行くならみんなで。俺らは遠くへ行くんだ。みんなでやればできる」とリシャは言った。

 

ここの人たちに励まされて何とか食らいついている。赤道直下の日差しがキツい。かれこれ1週間くらいお腹を下している。火照った体を井戸から汲んだ水で冷やしながら、奮闘している。

 

西アフリカ地域、最高級品のケンテ

首都ロメから120kmほど北上したところにパリメという町がある。そこは6年前、ぼくがラジオ局のジャーナリストとして働いていた町だ。エウェ族が大半を占めている。首都は中国の影響を大きく受けていたが、ここパリメではほとんど6年前と変わらない風景が広がっている。

 

ここで市場調査を開始した。マルシェでアフリカ布をリサーチすると、大きく3つの種類が流通していることがわかった。

①パーニュと呼ばれる、インクジェットプリントで生産されたもの。パーニュと画像検索して出てくるような、あるいは既存のアフリカ布製品はほとんどすべて、このパーニュの類で作られている。パーニュは主にオランダか中国で大量に生産され、西アフリカ諸国に卸されている。

②バティックと呼ばれる、ろうけつ染めの布。パリメにはたくさんのアーティストがいる。いわば、アートの町だ。ここのバティックアーティストが一つ一つ染め上げた布がある。パーニュよりも色のトーンは落ち着いている。

③ケンテと呼ばれる、エウェ族伝統の布。①②と違って、糸で色やデザインを描く。価格も高く、ある程度のステータスのある人でないと購入することができない。

 

③のケンテは、独特のオーラがあった。ケンテに興味を抱いたぼくは、聞き込み調査をしてその製造現場に潜入することができた。

 

ここの大将に更なる聞き込みをしたところ、ケンテにも2種類あることがわかった。ピュアのコットンでつくられたものと、ピュアでないコットンのもの。マルシェで流通しているケンテは機械で織られたものである。ピュアのコットンは繊細であるために、機械で織ることができない。従って、手で織らざるを得ない。

ピュアのコットンでつくられたケンテは、ピュアでないものに比べて、価格は5倍程度。ここの人が購入できるものではないのでマルシェには流通していないことがわかった。一部の役人か欧米のエリート層がターゲットとなる。一見さんには販売しないという。

ピュアのものと、そうでないもの。触り比べてみると、風合いもさることながら全体の柔らかさもまるで違う。西アフリカ地域、最高級品であるケンテ(kinté)。この素材を使い、京都の伝統技術と組み合わせてモノづくりをはじめることに決めた。

 

手作業だからこそ、手の温もりを伝えることができる

トーゴで市場調査をしている。マルシェをまわり、バンドゥーズのオバちゃんたちにヒアリングを重ねている。ぼくの仕事は、歩くことから始まる。バンカー時代、町を歩いて、そこに住まう人の話を聞いて勉強させてもらうことが大切だと学んだ。ヒントは彼らの生活にある。

 

首都のマルシェでは、ほとんどの商品が中国製のものに代替されていた。チャイナタウンができて、中国人のまわりにお金と人が集まっている。WeChatをつかって商品を輸入し、マルシェに卸してお金を稼ぐ人が増えていた。

マルシェで出回っているアフリカ布のほとんどは、オランダか中国で製造されている。インクジェットで大量にプリントされたものが、ここに入ってきているのだ。

もしそれを扱うなら、オランダや中国で買い付けたほうがいい。ぼくは、現地の人の手がみえる商品を扱いたいと思っている。手の温もりは、手作業のものに宿ると思うからだ。

 

バンカー時代、京都・嵐山で職人と一緒に仕事をしていた。職人が織りなす仕事は一級品だ。かつて、嵐山は着物産業で栄えたエリアだが、そこの染職人の仕事は、モードの最高峰であるパリコレクションでも評価を得るほどだった。

しかし、大量生産・大量商品のながれのなかで、仕事が激減していた。いい仕事をしているのに、業績は厳しくなっていた。

そのもどかしさがあるから、職人にフォーカスした仕事がしたいと思っている。

 

首都のロメには、その仕事が見えづらかった。聞き込みをしたところ、首都から北西に120kmほどのところにあるパリメという町に、伝統的な手作業の仕事が残っているという情報を得た。

さっそく、ぼくはパリメに向かった。パリメは、今から6年前、ぼくがラジオ局のジャーナリストをしていた町だ。懐かしい風景に脳みそが震える。「トシ!!!」と呼びとめてくれる、ナタリー、シェリタ、アベル、ポール、ヤオヴィ、コフィ、、、まだぼくのことを覚えてくれていた。

彼らに話を聞くと、ここにはたくさん手仕事があるという。ここは、アートの町だと知った。

 

中国人も入り込んでおらず、ここならではの文化がまだ残っていた。バイクタクシーの運ちゃんに事情を説明すると、マルシェに案内してくれた。そこのアフリカ布は、もちろんインクジェットプリントのものもあったが、見慣れない布があった。伝統的な織物。かつて、王への献上品、あるいはハレの日に着るために作られたというそれは、独特のオーラがあった。他のものと比べて5倍以上の値が付けられていた。

どこで作られているのか、どうやって作っているのか、だれが作っているのか。

偶然にも、バイクタクシーの運ちゃんが答えを知っていた。その工場へ案内してくれた。

 

そこは工場というより、畑のなかにあって、青空のもと、10人くらいの集団が手と足を動かしていた。木の幹と枝をうまくつかって組み立てられた機械。そこに糸をとおして編んでいく。探していた手作業の仕事が、そこにはあった。

 

 

 

 

 

トーゴ共和国に到着、市場調査開始

関空を出て台湾→シンガポール→エチオピア→トーゴ共和国へ。およそ40時間の長時間の移動は、学生当時にはあまり感じなかったが、かなり体にくる。トーゴは発展著しい。空港がかなり綺麗になっていた。前回入国時は、賄賂を請求された。その反省を活かして万全の体制で臨んだ。現地語のひとつであるエウェ語をつかうと、一気に顔がほころぶ。「おまえはトーゴ人か」と疑われる。無事に入国を突破した。

 

入国してすぐに、友人が出迎えてくれた。フライトが遅れていたけれど、ずっと待っててくれていたらしい。アツいハグをする。「ここで無駄な金は使うな。ホテルの予約はキャンセルしてウチへ来い」と、お世話になっている。

彼も今年に起業したらしく、しかもぼくと同じアフリカ布を扱うビジネスをしているという。さらにモバイルマネーやタブレットPC、保険業、警備業と、多岐にわたるビジネスを展開している。ここでのスモールビジネスをたくさん経験しているから、めちゃくちゃ勉強になる。

まずは、アタシと呼ばれるゴハンとトマトソースの丼に、焼きフロマージュをトッピングしたものを頂く。あまりの懐かしさに脳みその奥がジーンとする。

 

街へ出てまずはWi-Fi環境を整えようと試みる。トーゴは「イモトのWi-Fi」の対象国ではないし(アフリカ諸国の8割ぐらいをカバーしているのに)、どこの企業もまだ提供してくれていないから、はやく快適なネット環境が整備されたらいいなあ。

友人に価格交渉をお願いして、ユーロをセーファー(cfa)に両替し、Wi-Fiルーターを45,000cfaで購入した。ネット速度は、かなり遅い。

 

それから早速、マルシェで生地問屋を巡った。ここ数年で景色は大きく変わっていた。中国製品に溢れている。これだけ大量に流通しているとは思わなかった。どんどんトーゴの生活が薄くなっていっているような感覚がある。

 

ぼくは職人の仕事がみたい。インクジェットで大量に生産されたものではなく、職人が手仕事で丹精込めて生産された布がみたいと思っている。商品に人の顔が見えたときに、人の気持ちが動くのではないかと思っている。このデジタル化された社会のなかで、どこか人は寂しさや孤独を覚えたりしているように思う。そんな社会だからこそ、手の温もりを届けたいと思っている。彼らならできる。

ぼくの市場調査が始まった。

アフリカバー

個人的には現地での生活はアフリカバーなしには語れないと思っている。

アフリカバーではキャッサバからつくられたジンをたしなむ。BGMはBob Marleyの曲が流れることが多い。ナイジェリアやガーナのアーティストの新曲をチェックしにくる人や、ダンスをしにくるだけの人、もちろん夜通しで語り合う人も。

お酒と音楽と人。生活がシンプルだからこそ、それぞれが引き立つ。お酒は美味しいし、音楽は心地いいし、人の温もりを感じる。ほかに必要なものってなんだろう。ぼくはすぐには思いつかなかった。

 

受け入れて前に進むということ

教会にはジャンベという太鼓がある。聖歌隊が登場するのと同時に、ジャンベを叩いて雰囲気を盛り上げる。宗教は他国から入ってきたものだけれど、ここのオリジナルをミックスして、実に愉快な宗教へと進化させている。

伝統や文化は残さなければならないもの、守らなければならないもの、というわけではないのかもしれない。生き物と同じで、必要なものであれば残るし、必要でなければ淘汰されていく。それが自然なのかもしれない。

ここは、かつて植民地だったこともあって、たくさんいろんなものが入ってきたが、それをうまく受け入れながら、形を変えながら、いちばん自分たちに合うように付き合ってきたことがわかる。

むずかしいことはよくわからない。ただ、柔軟性というのは生きていくうえで大切なことなのかもしれない。

 

ダニエラから学ぶ

ここには子どもがたくさんいる。これまでの人生をふりかえると、だいたい自分が最年少だった。しかしここに来ると、ダニエラくらいの子どもたちがマジョリティーとなる。

そうすると、教えられる側から教える側にまわる機会が増える。そのときに気づいた。人は、教えられて学ぶのではなく、教えて初めて学ぶのではないかと。

ダニエラがたくさんの人から愛情を注がれているように、自分もまた、たくさんの愛情を注がれてきたのではないかと。

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