それぞれの1994年と2016年の日常

記念館の丘からタウンを臨む

記念館の丘からタウンを臨む

 

Asian Kitchenのスタッフはみな個性的で楽しい人たちばかりです。

今日はその中のイノセントというスタッフの話。

1990年生まれの26歳。

現在ストックコントロール、デリバリーなどを担当してくれていて、どんな仕事をいつ頼んでも、

” No problem~”

と笑顔で引き受けてくれます。

実は、面接当時は英語に難あり、経験もあまり芳しくなかったので、一次面接では不採用にしました。

ですが、掃除・雑用をやってくれる人がもう一人必要となったとき、

彼の柔らかい物腰、穏やかでハンブルな態度がなんとなく心に残っていて、呼んでみた、という男の子。

 

ある日仕入れに行く車の中で、話の流れで彼は

自分は4歳から10歳までストリートチルドレンだったんだと、いつもの笑顔で言いました。

彼は孤児院出身であることは知っていましたが、具体的な話は一度も聞いたことがなく。

 

94年当時、彼は当時4歳。

母親は亡くなり、父親とは生き別れ、(今でもおそらく死んだ、という情報しかない)、5人の兄弟とも離れ離れ。

4歳で、一人で路上生活者になったというその事実に、6歳の息子がいる身としては、息子より小さな子が一人でどうやって路上で生きていくのかと想像してしまいましたが、実際は当時はそういう子どもでどこも溢れていたのでしょう。

 

大変だったね、みたいななんとも薄っぺらいことしか言えなかった私に、彼はつたない英語で、笑顔でこう返しました。

” I saw, many people, good.”

 

残飯をくれる飲食店もあったし、物乞いをすればお金をくれる人もいた。路上で死んでいった仲間や、非行に走ってしまった友だちもいるけど、自分は親切な人に出会えて、孤児院にも行けた。

I saw, many people, good.だから、自分も good man になろうと思ってやってきた、と。

 

・・・Oh・・・key

としか言えなかった私。

 

今では仕事もあり、英語も勉強している。勉強できる。

自分は子どものときに学校に行けなかった。大人になってから始めると、覚えるのにも時間がかかっちゃうんだ。でも、Slowly slowly, but I am learningなんだ、と嬉しそうに話していました。

 

彼はとてもおっとりしていて、飲み込みが早い方ではないので、私はよく厳しく注意します。

「これ月曜におしえたよね?今日金曜だよね?4日間何してたの?」

と社員に対しても正面から事務的に詰めてしまう私に対して、

そういえば彼は笑顔で”Slowly slowly I’m learning.”

と言っていたのを思い出しました。

そこでも私は「いやslowlyじゃ困るんでASAPお願いします」と変わらず事務的に返していたし、

他の使用期間中の男の子についても、私の指摘に対して「slowly slowlyだけど彼は覚えてきている」、とイノセントは言っていましたが、私は結局その男の子は不採用としました。

 

「ちょっとずつ進んでまーす」

私は彼の言葉をこれくらいに解釈してイライラしたりしていましたが、そこにはきっと彼の強い信条というか、これまで生きてくる上で培われた物事の捉え方のようなものがあったのかもしれない、とこのとき私は初めて思い至りました。

月曜日に教われば金曜日には当然できる、というのも、私のバックグラウンドでは当然なだけであって

 

 

先日は、Prisonにいる友人に会いにいきたいので明日は昼から出勤でいいですか?

とこれまた笑顔で言われまして。

とりあえずOKしながら、なぜその友人は刑務所に入っているのか流れで尋ねると

“He made a mistake~”(笑顔)

回答が汎用性高すぎて会話終了。

翌日彼は差し入れのパイナップルとパンを大事そうに抱えて出勤してきました。「面会時間に5分遅刻して会えなかった~」(笑顔)とのこと。

・・・・・・。

どこまでもイノセントなイノセントなのでした。

 

 

イノセント

イノセント

 

相手のバックグラウンドを知ることは大切なことですが、

ここルワンダでは誰のバックグラウンドにも必ず刻まれているジェノサイドの話は、実際とてもデリケートです。

ルワンダと聞いて、その国を知っている日本人の頭を最初によぎるのは、映画「ホテルルワンダ」など、おそらくきっとこのジェノサイドのことで、Googleで検索してもその画像ばかり出てきます。

 

一言でいうと、1994年、

少数派民族を多数派が虐殺した、というもの。(実際は事態が混乱を極める中、穏健派やその他多数派も多く犠牲になっています)

当時の人口が700万人強のところ、3ヵ月で80~100万人が殺されているので、現在22歳以上なら、ほぼ全員が経験しているような規模です。

実際うちの社員にも緊急連絡先を書いてもらう際、両親がそろっているケースはまれです。

ですが、民族に触れるのはタブーなので、表だって当時のそれぞれのヒストリーが語られることはありません。

相互理解に向けて対話などの取り組み国や支援団体主導でされていますが、

自分は当時どちら側で、どういう経験をしたか、普段の会話に出てくることはありません。

個性的な社員たち

きっとそれぞれにヒストリーがある

たまに自分から当時のことを話してくれる人もいますが、それはきっと私がどちらの民族でもないから。

 

とあるスタッフの男の子は、典型的な外見で、南部で牛を多く持つ家庭に育ちましたが、94年、両親が殺され、12人兄弟のうち、彼を含めた4人しか残らなかったことをおしえてくれました。

それぞれに、想像を絶する過去があることを改めて知ると同時に、今あまりにも普通に、穏やかに暮らしていることとのコントラストが、なんとも言葉にできないのですが。

 

ジェノサイドは、94年に突然起こりそして終わった話ではないのだということを、ときどきふと感じさせられます。

誰しも当時の個人のエピソードとして、社会的な背景として、根深く続く歴史的な文脈で、それぞれの「今」に刻まれているけれど、表立ってはいなくって、でも終わってもいない感じというのでしょうか。

 

締めくくり方が分からなくなってきたので、アフィリエイター風におすすめ図書をご紹介して終わりにしたいと思います。それではどうぞ。

 

生かされて。

狭いトイレに7人の女性と息をひそめ続けて、殺人者が自分を探す声を壁一枚挟んで聞きながら、生き延びたある女性の自叙伝。

それまで家族のように仲良くしてきた人たちが、どのように自分の愛する人を惨殺していったか、読んでいて苦しくなる物語ですが、決して希望を捨てず、奇跡を起こし続けて「生かされて」生き延びた彼女の強い信念には、ジェノサイドや宗教に興味がない人でも心を揺さぶられるはず。

絶望のトイレの中で、きっと来るこの後の平和な世界で自分に必要なものは英語だいうインスピレーションをもち、勉強を始める彼女。それが実際に彼女を救います。奇跡は起こすものだと思わされます。

 

唐渡千紗

追記:

映画①ホテルルワンダ

このについては、現地の人からも賛否両論ありますが(立場が違う人が見ると、描かれ方にはそれぞれ思うところがあるのでしょう)、国際社会がルワンダで起こっていることを「虐殺」と認めず、したがって介入できない、と止めようとしなかったという事実を映画で伝えている点で意義があると思います。

映画②ルワンダの涙

これは原題”shooting dogs”に意味が込められています。