自己紹介②

「僕はこの仕事が好きだ。だからここまで頑張れたんだと思う」

 

何故そんなに頑張れたのか?という私の問いに対して、現地スタッフのJからこんな言葉返ってきました。それは2011年、大学生活最後の夏休み。ビジネスの面白さを噛み締めた瞬間でした。

 

 

私が小学校6年の時に、父親に浪費が原因で蓄積した一千万円以上の借金があることが判明し、両親が離婚。元々仲睦まじい家庭ではなかったので、離婚自体は驚きでは無かったものの、その後の清貧生活には苦渋を飲まされて来ました。

まず家がぼろい。父親が当初の約束を反故にして家を出て行かなかったので、しびれを切らした母親が子供を連れて、実家に帰ることになりました。しかし、実家の祖父母はすでに7年程前に亡くなっており、実家の家はその後ずっと空き家になっていて、また、その時点で既に築年数70年以上という超アンティークハウスだった為、その家は事故物件のそれと言うべき異様な雰囲気を放っていました。そういう家に住んでいるとなかなか人を家に呼べないし、呼べないと周りから「なんで?」と怪訝な表情をされ、たかだか住んでいる家ながら、じわじわと自尊心が傷ついていく感じがしました。

 

(劇的ビフォーアフターのビフォーの権化がここに降臨。階段、扉、雨どい、すべてが斜めっている。「過去5世代にわたってこの家の呪いに苦しめられてきました」と言われて納得感のあるクオリティ)

 

また、当然お祝い事のプレゼント等もほとんどないし(クリスマスは虚構であると教育されていた為、大学で付き合っていた彼女にクリスマスプレゼントをなんの悪気もなく渡さなかったことで大喧嘩になった)、学校行事も場合によっては参加出来ない。もちろん、(そもそも勉強する気もないが)塾に行くお金なんてないし、高校も私立には絶対行けない。そんな感じで、お金がないことからくる様々な制限が思春期の自我を真綿のように苦しめて、気づけば、中学校一年生の後半には、毎日カラオケでオールをして、酒飲んで、原チャリを盗んで、といったしょうもない生活を送るようになっていました。

 

それでも2年生になった時に転機が訪れて、殆ど私を見限っていたはずの担任が(2と1が乱れ咲いていた通信簿のコメント欄に「今学期は取り返しの付かない失敗を重ねました。一生後悔するでしょう」と書かれたと記憶している)、生徒会長に立候補してみないかと打診してきたのです。今となってはその意図は良くわかりませんが、お調子者が人気を得るという中学校特有のメカニズムのおかげであっさりと生徒会長に選出されました。立場が人の意識を変えるのか、就任して以降、「どうせなら意味のあることをしたい」と思う気持ちが強くなり、いくつかの無駄な校則を緩和しようと試みました。そして、登校時にスピーチをしたり、ビラを配ったりする努力を重ね、結果全校での投票にて可決されることになりました。これまで感じたことのないような達成感に包まれ、その後はなぜか学業もグンと成績が伸びていきました。

 

この一連の経験を経て、「人生は自分の手で変えられる」という学びを得たような、そんな気がしました。

 

高校3年生の時、哲学者ニーチェの「人生愛」という言葉に出会い、まさに自分の考えと同じだ!(本当にそうかよくわかりませんが)と思い、ドイツ語でニーチェを読んでみたいと思い、大学ではドイツ語専攻を選んだのでした。しかし、実際にドイツ語を学んでみると、その文法のまどろっこしさに、教科書を読んでいると2-3分に一回吐き気を催すという劇症に見舞わられました。

 

「ニーチェなんて読んだら一日中吐き気を催して死んでまうでこりゃ・・・」

 

大学を志望した理由をあっさりと切り捨てなければいけない状況に絶望していた1年生の暮れ、とある本を手に取りました。武装解除という、シエラレオネ内戦の停戦後の武装解除を担った伊勢崎賢治氏が書いたルポタージュでした。シエラレオネ内戦のその凄惨たる事実を知って以来(映画ブラッドダイアモンドのテーマになった内戦です)、アフリカの経済開発に興味を抱きました。小さい頃から自分は不遇であると思っていたが、全然比較にならないではないかと。自分の目でアフリカを見るべきと思いつつ、アフリカには何のあてもない。どうすっぺかなぁ~と途方に暮れていたところに、在外公館派遣員という、若者を日本大使館に送り込むという制度を知ったのでした。
そして、大学3年生の春から2年間、アフリカのボツワナ共和国で大使館の立ち上げスタッフとして勤務し、ODAを含めた開発の現場を垣間見る機会を得ました。しかし、「まぁアフリカ向けのODAは所詮、国連常任理事国入りの為の道具だから」と言った現役外交官の言葉を耳にし、供与後1年で錆びついた数十台の農業トラクターの山を見るにつけ、公的な立場からの経済開発は少なくとも自分のしたいことではないなぁと感じました。

民間の視点からはどうなのだろう?という疑問の答えを見つけるべく、大学最後の夏休みにルワンダの現地起業でインターンをしました。そこで出会ったJは現地ののスタッフで、最初は掃除夫として採用され、その後努力を認められ、オフィスの雑用係、工場担当、そして工場のマネジャーとわずか三年で職位を駆け上がっていったのでした。採用当初は殆ど話せなかった英語も、私が出会った頃には日常会話は問題ないレベルにまでなっていました。

どうしてそんなに早く職業人として成長出来たのか?そしてなにより生き生きと働けているのか?彼を見ているとそんな疑問が湧きました。「仕事が好きだから」という明快な彼の明快な回答は、私の中に強い想いを残しました。

 

「人生は自分の手で変えられる」

奇しくも、夜更かしアル中中学生からなんとか社会復帰した自分が得た学びと、同じようなものを、遠く離れたルワンダの地で垣間見たのでした。

 

自分も自らの手でこのような場所を作ってみたい。それを何個も、何百個も実現したい、と。これが私がアフリカで起業したいと思ったきっかけで御座います。長々と失礼しました。