私がアフリカで起業に至った経緯(後編)

起業に至る経緯について、前半はアフリカに至るきっかけまでを記載しました。

後編は、2010年末にケニアから帰国後、会社を辞めて2014年1月に東アフリカへ移住するまでを書きたいと思います。

※前半はこちら:http://entre-africa.jp/jun_ito/1006.html

 

帰国後、アフリカへの想いを募らせながら悶々とした日々
2010年末に帰国後、英語力も向上し、グローバルの多様性の中でのコミュニケーションやプロジェクトマネジメントへの自信がついて、グローバル・プロジェクトで仕事をする機会がぐっと増えました。

ケニアに行く前は、グローバルで働くといっても、漠然と欧米で仕事をしてみたいと思っていたのですが、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、中東などに出張する機会が増える中で、先進国よりもダイナミックでポテンシャルのある途上国でのビジネスに強く惹かれていきました。また、同じ途上国でもアジアとアフリカの違いを大きく感じることになりました。その中で、ケニアで漠然と感じていたアフリカへの可能性は徐々に確信に変わっていきました。

また、帰国後から日本のそして世界の社会起業への関心も強くなり、SVP東京という社会起業家への支援・協働を行う団体に所属することにもなりました。

SVP東京などの活動を通して、日本の社会課題の解決に人生をかける起業家の方々と多く出会い、そこからアメリカ、インド、中国、東南アジアの社会課題を解決している世界中の起業家と接する機会を多く持つ事ができました。
また、そうしたネットワークを通して、同じようにアフリカの可能性を感じ起業した方々、組織の中からアフリカの事業・活動に関わっている方々と多く出会うようになりました。自然と、彼らと時間を共にする機会が多くなっていきました。

この頃から、少しずつ起業して自分の好きなことに人生を捧げるのも良いかなと思い始めるようになりました。しかし、具体的にアフリカでやりたいことは日本にいていくら考えてみても出てきませんでした。まずは、アフリカに長期滞在し現場の中でニーズを探ることから始めようと考え、そこに繋がる道を模索することにしました。

日本企業のアフリカ駐在から、外資系企業のアフリカオフィスへの転職、現地アフリカ企業への転職、そして国際機関や開発機関への転職も含め、様々なチャンスを模索しました。

例えば、アフリカ各国に事務所を構えるコンサルティング会社、グローバル企業へ直接履歴書を送って応募したり、インターネットでアフリカ現地企業の求人を見つけて応募するなど、50社以上へ応募し、道を探ってみました。

一方、社内でもアフリカオフィスへの転籍が出来ないか?探り始めました。社内のイントラネットから各アフリカオフィスの人事部長宛にメールを送り、『今は案件がない。』『日本人をわざわざ雇う理由はない。』など言われながら、定期的にポジションがないか?自分が価値を出せる分野はないか?を探っていました。
再度手にしたアフリカで働くチャンス
そんな中、社内で日本人でもアフリカで働けるチャンスがあるとの話を聞きました。途上国のソーシャルセクター(NGO、国際機関、政府機関)の団体や機関に対して、通常の営利企業よりは安価な価格でコンサルティングサービスを提供するプログラムがあり、社員ならば全世界から応募が可能というものでした。

ただし、当時、実質的には日本オフィスからの窓口は大きく開かれておらず、2000年前半から始まったプログラムですが、これまで日本からの参加者は2名だけでした。(世界では数百名以上の参加実績)

当時の会社に所属しながらアフリカに関わるならば、このプログラムを活用するしかないと考え、当プログラムを運営するグローバルの担当者に何度も連絡を取り始めました。また、当プログラムを日本オフィスで啓もう活動するグループに参加する事で、グローバルチームとの関係性を築いていきました。

単に案件を求めていても日本人には機会が回ってこない事がわかり始めました。公式的には全世界からの公募でしたが、実質は欧米の数カ国からの参加者が大半で、公募になる前に参加者が決まっている事が多いのが実態でした。

そこで、連絡を取り合う中で築いたネットワークを使い、『私が本プログラムの日本でのパイオニアになる。』と訴え続け、さらに、グローバルチームの仕事を手伝うことにしました。週末の時間を使って、彼らの営業や提案書作成の仕事を手伝い始めました。手伝いをする中で、自分の能力やスキルを認めてもらう事が出来、一般公募にかかる前に日本人である私にも事前に案件の紹介が回るようになりました。

数件の案件の紹介を受ける中で、幸運にもケニアで働ける機会が回ってきました。

2013年6月、東アフリカの医薬品のサプライチェーンの拡大戦略を策定するというプロジェクトのプロジェクト責任者として、ケニアの首都ナイロビで仕事をすることになりました。但し、それは3か月という短期間のプロジェクトでした。

3か月の期間の中で、アフリカで自分が何をしたいのかを見極めたいと考えていましたが、現実は甘くありませんでした。
日本人一人の中で、イギリス人、アメリカ人、ケニア人、エチオピア人、ルワンダ人、マラウィ人を束ねるプロジェクトは、難易度が高く、夜も休日も、文字通り日夜仕事に没頭する日々が続きました。

また、駐在員として生活するナイロビは、ケニアの田舎を経験した自分にとっては東京や世界の他都市で仕事をするのと大きく変わらないと思うようになっていました。

色々と状況が複雑化するなかで、プロジェクト自体は前に進んだのですが、管理者である私が途中で離脱するという結果になりました。
偶然にもプロジェクトでの大失敗で救われた命
プロジェクトから離脱することになり、とても落ち込んでいた時に、ある友人(友人とはいえ二回り以上も上の大先輩)から、「落ち込んでいるなら、タンザニアにいるから会いに来なよ。」と言われて、プロジェクト後にタンザニアに向かいました。
そこで、彼から「プロジェクトを抜けたことも、ここタンザニアで会えたことも、全て意味がある。偶然ではない」と言われ、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)という本を借りました。

プロジェクトを離脱することになったため、本来であれば9月末までケニアに滞在する予定が9月中旬に帰国するはめになりました。

私が帰国した3日後、2013年9月21日土曜日、ナイロビのショッピングモール(Westgate)で大規模な爆破テロが起こりました。このショッピングモールは私が住んでいたアパートから徒歩5分のところにあり、土曜日はここで買物をするのが日課になっていました。

もし、プロジェクトが失敗に終わらず離脱せずにケニアに残っていたならば、僕は事件に巻き込まれていた可能性が高かったと思います。上記のシンクロニシティの話もあり、今、このタイミングでプロジェクトが失敗したこと、タンザニアに行ったこと、などすべてに何か意味があるのではと思うようになりました。
自分と向き合う中で決意を固め、アフリカへ
帰国後すぐに、お世話になっていた上司から「伊藤、帰ってきたみたいだな。お前にピッタリの案件があるぞ。やらないか?」と電話を受けた際に、口から出ていた言葉は、「いや、会社を辞めてアフリカで起業したいと思っています。」でした。

そんな言葉を発していたのですが、この時点では、まだ強く起業したいとは考えていませんでした。
また、アフリカで成し遂げたい大きなビジョンは明確になっていたのですが、相変わらず、具体的にやりたいビジネスアイデアは見つかっていませんでした。

しかし、今がそのタイミングなのではないかと感じるようになっていました。

その後、有給をフルで使い1か月半ほど休む中で、100名近くの方に相談させて頂きました。毎日色々な方とお会いし、相談した内容をメモに纏め、近所の図書館に行きメモと向き合いながら自分の心に問いかけるという作業を毎日毎日繰り返しました。

お世話になっていた様々な方から、大きなヒントを貰い続けた日々でした。また、これまでの人生の中で、最も自分の心と向き合った期間でもありました。この自分の心への問いかけの作業を通して、アフリカで起業する事の覚悟が決まりました。

ただし、この時点でも依然として具体的なアイデアはありませんでした。見つからなかったというより、現場に行き自分の足で現地のニーズを感じて紡ぎだす以外に、自分が心から揺さぶられる活動は見えてこないと確信していました。

2013年12月、アクセンチュアを退職し、2014年1月からケニア・ウガンダに拠点を移し、まずは調査から始める事にしました。その後、3-4か月の調査を通して、2014年6月に起業・サービス提供を開始しました。

※初期の人材育成事業を起ち上げた経緯などは、また時間のある時に紹介させて頂ければと思います。