なぜガーナで起業したいのか?

(写真:Nwodua村(モデュア村)に続く何度もバイクで駆け抜けたアフリカらしい大好きな1本道)

みなさんお久しぶりです!ガーナ発kawaiiコスメの相川香菜です!

約1年ぶりの投稿となりました。昨年第2回アントレアフリカにファイナリストとして残していただきましたが、残念ながら最終的に支援先には残れずかなりの悔し涙を流しましたが、コンテスト応募を通して自分に残ったものはとても大きく、今年も再挑戦させていただくことにしました。

昨年の応募時は会社勤めをしていた私ですが、2018年4月末で勤めていた大阪にある会社を退職致しました。心の内に秘かにガーナ起業への熱い思いを抱えていた私を最後まで温かく見守り送り出していただいた前職の会社の皆様には本当に感謝してもしきれません。

西アフリカのガーナで異業種の化粧品ビジネスをするという私を当然のことながら、社長を初めて会社の皆さんは心配してくださいました。そして自分自身もたくさんの不安がありました。

しかしながら、この場を通してブログを書いているうちに自分自身の言葉に嘘はつけないなと強く思うようになりました。支援先に残れたとか残れなかったとか結果論でなくて、自分でここまで書いておいてそれを反古にすることはできないと強く思うようになりました。

人に嘘を付くことはできても、自分に嘘をついて生きていったらこの先私は何にも真剣にはなれないと。

とはいうものの2012年の帰国からガーナから遠ざかり大阪で普通の会社員として生活していた私には、会社員を辞めてガーナでの起業の道一本で生きていくことを決意するのは簡単ではありませんでした。JICAボランティアでガーナに滞在していたとは言え、当時は大きな組織の後ろ盾があったけれど、今回は完全に一人でのスタートになります。

色々考えた末に結局ガーナに行くことを決意しました。この時点でコンテスト応募などをきっかけに99%ほとんど起業に対する決意は固まっていましたが、最後の1%の自分の気持ちをこの旅で確認しようと思って出かけました。最後の一押しの為に。会社員だった私は年末年始に数日の有給休暇をいただき、10日間のガーナへの旅に出ました。

ガーナに着くとまず空気の匂いが違い、ガーナの香りでとても懐かしく嬉しくなりました。

日本では色々と考え過ぎて動けなくなったいた私ですが、結局約1週間のガーナ滞在で感じたのは、自分はガーナの友人も人も食べ物も景色もどれも好きなんだなということでした。

 

(写真:首都アクラからガーナ北部州タマレを結ぶ国内線。飛行時間は約1時間)

(タマレ空港で見たブラジルとガーナ協同によるタマレ空港の国際空港化プロジェクト。タマレでは約90%の人々がイスラム教を信仰しており、メッカ巡礼への需要があるため。)

ガーナ滞在では3日間ほど首都のアクラに滞在し、4日間ほど北部のタマレと住んでいた村に滞在しました。滞在中は懐かしい人々に会うのがメインで慌ただしく時間が過ぎていき、起業を決意するような特段大きな出来事があった訳ではありませんが、5年も前のことなのに昨日のことのように私との再会を喜んでくれるガーナのみんなを見ているとただただ懐かしく、嬉しく、自分がした決意はやはり間違っていなかったんだなと思うにはそれだけで十分でした。

(写真:ボランティア活動当時シアバター作りのグループとして一番熱心についてきてくれていた女性たち。再会を喜んでくれて本当に嬉しかった。左手をあげている女性の手についている黄色いものがシアバター)

(写真:ホームステイしていた家族と。子供達が成長していて時間の流れを感じる!私の隣の女の子は生まれた時から知っている!)

ガーナの友人に言われたとても印象的な言葉があります。

「一度家族として香菜(ガーナの現地語ではTunteeyaと呼ばれる)を受け入れたから何度ここに帰ってきても Tunteeyaは家族だ。」

これを聞いた瞬間私はふっと全てが腑に落ちたような気がしました。

ガーナは途上国だから助けないといけないとか、アフリカだから貧しいとかそんなことではなく、日本で私を待ってくれている家族や友人と同じように、ガーナの村の人たちもみんな家族で、青年海外協力隊の隊員として活動していた当時私は彼らの力になるどころか彼らの力がなければ生活することすらできませんでした。水汲みを手伝ってくれる子供達、ご飯を作って持ってきてくれるホストファミリー。助けに行くと思っていたのも束の間、生活の知恵に溢れたくましく生きる彼らの姿に毎日尊敬の念を抱き、感心する日々でした。ただ少しのきっかけにアクセスできないだけで、彼らの生活は困窮していました。少しのきっかけとは私がそれまで当たり前だと思っていたスキルや環境でした。

普通に学校にいけたこと。

文字が書けること。

計算ができること。

英語が話せること。

そんな当たり前へのアクセスがないために、彼らの生活は何年立っても変わらずわずかな現金収入を得られる道も閉ざされていました。

 

私が日本に生まれて得たスキルや環境と少しの勇気で、世界が少し変わるなら、今こそその勇気を出すときだと起業への最後の1%の決意を固めたのでした。