京都と世界をつなぐ舞台裏

 アート・文化のコミュニティーを生み出すプラットフォーム「THE KYOTO」で、ぼくたちの挑戦がシリーズ記事になっている。創業当初、99%くらいの人から意味わからんと言われ続けていたことも、丸2年が経つと、よくわからんけどオモロイと思ってもらえることも増えてきた。おかげさまで、ひろく「世界各国の工芸×日本の工芸」というような掛け合わせのなかでの仕事も舞い込むようにもなった。それもこれも、地域に根ざすということからスタートしているようにも思う。そのローカルの延長にグローバルなるものがある気もする。

https://the.kyoto/article/75946ef3-dab4-4a5b-803e-9eb03a719173
(#京都と世界をつなぐ舞台裏)

 最近、学生の方々と話すことが多くなった。そこでわりと話に出てくるのが「グローバル人材ってなんですか」ということだ。本音をいえば、ぼくもそれ聞きたい。 グローバル人材ってなんだ。なんとなくのイメージがあるような気もするけど、言葉にすると、とても空虚になる。

 英語をペラペラ話せる人、帰国子女の方はグローバル人材っぽい感じがある。英語もフランス語もスペイン語も中国語も話せるという人がいれば、めちゃくちゃグローバル人材っぽい。その命題が成り立つとすれば、それでは、外国語を話せない人はグローバル人材ではないのか。

 ぼくが普段お世話になっている京都の染め職人。その人は関西弁しか話せない。海外へ行ったこともないし、もちろんほとんど英語も知らない。京都のなかでも市バスでしか行けないような辺鄙なところで事業を営んでおられる。でもそこには、パリコレクションで採用されるほどの技術があり、世界中のトップクリエイターが称賛するものがある。その技術を生み出している人はグローバル人材ではないのか。

 ぼくが学生時代から一貫して主張していることのひとつは、ローカルに突き抜けることができれば普遍性に到達するということだ。一部で表現されるものは全体のなかの一部に過ぎないのだけれど、それは確かに全体のなかの一部であるということ。その一部を究めることがすなわち、全部に共通するものになり得るのではないかと思う。

 イチロー選手に関する書籍の主なターゲットは、世の経営者だという。いわずもがなイチロー選手は野球のプロフェッショナルであり、経営のプロではない。しかしその思想に、野球選手以外の人にコミットするものが潜んでいるのだ。

 だからぼくは、生まれ育った京都に軸足をおいて、ローカルに突き抜けた先の現代アフリカ文化との掛け合わせを模索しようとしたのかもしれないと、自分でも意味わからん事業を整理している。まるで違うようにみえる遠く離れたアフリカ大陸においても、なにか京都と共通する普遍的な何かがある。そしてそのヒントをすでにもう掴んでいる。土着的なものであり、地域に根ざしたもののなかに、それは見出されると信じてやってきた。少しずつ、メディアでも取り上げていただけるようになったのは、そうしたところがポイントなのかもしれないと思う。

 自分でもこれから誰とどこへ向かうのか、よくわかっていない状況ではあるのだが、その場の空気感と、自分自身の気持ちに正直に動いてみようと思う。楽しいアンテナが振れるほうへ。おもしろい価値を世の中に提案したい。