可能性を感じたこと

こないだの初めてのポップアップはお陰様で大盛況に終わり、直近で支払わないといけない税金関係も何とか納付できた。今回の挑戦で限界を感じることも多くあったが、一方で、可能性も垣間見えた。大きな希望となったのは、アフリカ×京都の商品が予想以上の好評を博したことだ。これまでやってきたことは間違っていなかったと、証明できたような気がした。まだまだ改良していく余地はあるが、確かな手応えを得られたのは良かったと思う。


 そしてもう一つ、可能性を感じたことがある。実は販売に際して、かなり前衛的な試みをしていた。ラインナップした一部の商品に価格を付けなかったのだ。お客さんに値決めを委ねて、それがいくらであろうと、お客さんの言い値で販売した。結果として、予想した金額(それは原価を下回る金額だった)よりも高値で取引され、企業として継続していくのに適正な価格でお客さんに届けることができた。

 ぼくたちは、たとえばスーパーで売られている商品の価格を一方的に受け取るのみで、それがどこから来たのか、誰がどのようにして作ったのかを想像する機会は極端に少ない。だから多くの人たちにとって、基本的には値段の安さが決定的に重要になる。そこに生産者が報われているかとか、適正なサプライチェーンを築いているかとかは、さほど気にしなくてもいいシステムになっている。もっと言えば、その商品が誰かの悲しみのうえにあったとしても、大して問題にならないようになっている。そこに対して、小さくても挑戦したくて、値段を付けなかった。


 その結果は、予期せずして持続可能な形に終始した。誰ひとりとして、原価を下回る価格を付けなかった。そのことが語るのは「もっとお客さんを信じていい」ということだと思う。考える機会さえあれば、たとえその相場感がわからなくても、目利きができるだけのスキルをお客さんは既に持ち合わせている。それはぼくたちのような、規模の経済性を発揮できない、あるいは巨大な資本をもたない事業者にとって、かなり嬉しいニュースだった。


 だからぼくたちがすべきことは、臨場感のある情報を提供し続けることだと思う。どこの誰がどのようにして作っていて、それがアナタに届けられることによって、どのようなことが起こっていくかということを、もっとリアルに、息づかいを感じられるほどに、伝えていく必要がある。それは一つの言葉かもしれないし、一枚の絵かもしれないし、一本の映像かもしれない。そのデザインの構築に、ぼくは活路を見出している。